多民族多宗教共存都市~神戸宗教サミット 第3回
「神の戸が開かれた地」 ~多宗教共存都市・KOBEフォーラム~
2006年1月21日
会場:神戸市 ネザーランドセンター1F
主催:多宗教共存年KOBEフォーラム実行委員会、兵庫県、神戸市、(在兵庫県芸術文化協会)
パネリスト 左:関西文学編集長、河内厚郎
右:日本イラン文化交流協会顧問、ダリア アナビアン
山降哲雄
宗教学者 北京大学でインド哲学を学ぶ。前・国際日本文化研究センター所長
宗教というと、普通は教祖あるいは預言者がいて、教義があって、儀礼があって、お祭りがある。仏教も、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、みんなそ うですが、そろそろ賞味期限が切れつつあるのではないか。宗教が成り立つ以前に人類が共有していた宗教があったと思います。
教祖も教義も経典もない、天地万物に命が宿る、魂が存在するという考えです。日本は、それを濃厚に残している地域のひとつで、お祭りはあるが、開祖がいな いし教理もない。その替わり「場」を大事にします。土地、土地に鎮まっている神様を拝む。森や山岳を大事にするようになった。地鎮際をするのもそのためで す。神戸に坐す神、出雲に坐す神、テヘランに坐す神、パレスチナに坐す神、どの土地にも神様が坐す点で共通している。世界万物生命教と言ってもよいです。
佐藤曲久
北野天満神社宮司。同社は平清盛が福原へ遷都する際、新都を守護するため勧請した。観光地・北野という地名の由来となります。
地域に外国の方が多く住んでいますし、神社は信仰の場であると同時にコミュニティセンターの役割も果たしますので、国籍・言葉・文化・宗教が違ってもいい じゃないかということで自然に始まった祭です。オープニングのピースセレモニーでは各宗教の方に来ていただいて、うちの拝殿に上がっていただき、イスラム の方でしたらメッカの方を向いて平和のお祈りを捧げます。イスラムの方とユダヤの方がご一緒に上がってお祈りすることもあります。神道は宗教であって宗教 でないと、教えられてきました。宗教と呼ばれている中で教理経典がないのは神道だけです。山の神様とか海の神様とか、それぞれに神が宿る八百万神信仰とい う多神教ですから、他の宗教を受け容れることができます。
サニー・フランシス
インド出身。ラジオパーソナリティー。神戸市難区在住
日本人のステロタイプなところは、どんな国に対しても決め付ける傾向があります。インド人なら毎日カレーを食べている、宗教はヒンズー教だろうな。でも、 インドにはイスラム教徒が30%、クリスチャンも何千万人もいるんです。親の宗教をそのまま引き継いでいるんですが、インドにいた頃はクリスチャンスクー ルに通い、毎週日曜日に教会で懺悔を受けていたのに、日本で暮らしだすと、教会に行かないし、懺悔にも行ったことがありません。宗教に対しておおらかに なってしまいました。
後進的な入国管理局
明治以降、門戸を開いた神戸は、いろいろな外国人を受け容れ、なかにはもちろんユダヤ人も含まれていました。有名な話で、1940年から41年にかけての ことですが、ナチに迫害されたユダヤ難民が神戸に逃れてきました。リトアニアの日本大使だった杉原千畝氏が外務省の方針に背いて発行したビザでシベリア鉄 道に乗ってきたのです。そのとき、神戸は4600人ほどのユダヤ難民を受け入れました。ただし条件があったのです。アメリカなど第三国に渡る中継地として の滞在許可のみを与えられたのです。そのときにユダヤ難民が保護されていた異人館通り(山本通り)に、何のご縁で今私が住んでいるのでしょう。
あれから60年も経ちますが、日本の難民対策は1ミリも進歩していません。私は、入管で難民申請しているイラン、クルド、アフガン人の通訳を勤め、基本的人権を否定されている状況をずっと見てきました。
イランとイラクのイライラ戦争が8年間も続き、教育と仕事を奪われたたくさんの男たちが出稼ぎ労働者で日本にきました。日本はバブル期だったので労働者が 足りず、外国人労働者どうぞということで、たくさんの出稼ぎ労働者が来日しました。イラン人も日本から家族へ仕送りができました。貨幣価値が10倍違う国 で真面目に家族に仕送りしたお金で、すぐに家も建ちました。日本の会社も安く労働者を得ることができました。日本とイランの関係が友好的だったので日本の 空港で簡単にとれる観光ビザで入国し、不法に働いてもたいして問題にならなかったのです。
ところが、地震後に経済が悪化し、真っ先に皺寄 せがいったのが外国人労働者でした。何年も観光ビザで働いていた出稼ぎ労働者がどんどん首にされていき、食べてゆけなくなりました。仲間同士の借金も増 え、断れずに麻薬売買の道に引きずり込まれる人がどんどん増えてしまったのです。彼らが警察でお世話になると、私に通訳の依頼がきました。それまでタレン ト活動をしていた私は、良い人生経験と思ってアルバイトで通訳を始めたのに、事件が増えるにつれ、通訳がいつの間にか私の本業になっていたのです。初めは 警察署、しばらくしてから法廷通訳の仕事もまわってきました。
私が通訳していたある日、警察署で刑事が黙々と調書を作成している間、イラ ン人密売人が取調べ室で私と無駄話をしていたときに自慢気に言ったことです。「麻薬の客は、ほとんど10代なんだよ。このまま僕たちがこうして薬物を売り 続けたら、日本が滅びてしまう」。その密売人は12年間も真面目に働いたのに、とうとう麻薬に手を染めてしまったのです。
裁判の日には、 前に働いていた会社の社長が証人として関西から800キロも離れた千葉県から新幹線代を払ってまで来ました。彼がすっかり家族同様で心が通じ合い、仕事に は遅れたことがなかったと泣きながら証言しました。裁判官が証人に聞ききました。「あなた自身会社が破産しているのに、こんな大変な時期に新幹線代を払っ て何故わざわざここまで来たのですか?」「もし、私が会社を維持できていたら、彼をこんな目に遇わせなかっただろう」と返事をしていました。
密売人は恥じ入り、俯いたまま遠くから来てくれた社長にさよならもできなかったのです。目を転ずると裁判官の周囲の人たちはあくびをしていました。私は日本人の関心の低さとイラン人の生活水準の酷さにびっくりしました。
1300年前、ペルシャのササン朝時代(飛鳥時代)では、イランは日本の生活様式から宗教儀式にまで影響を与えたと言われています。そんな昔から深い文化交流があったのに、ここ十数年来シルクロードの文化交流は、取調べ室のなかのやり取りに代わってしまったのです。
最近は、入国管理局でイラン人難民の申請者にも出会うようになりました。顔は見たことがないけど、私がいつも手紙の翻訳をしていたイラン人が難民申請を し、収容所に放り込まれたのです。犯罪者と一緒に狭い部屋で9ヶ月も生活しつづけた彼からとうとう自殺宣言の手紙が送られてきました。「私は、日本で10 年間真面目に働き、日本人の家族と一緒に住んできた。難民申請をすると法務局に却下され、その結果、不法滞在でここに収容されている。入管の収容所で9ヶ 月間も待っているのに難民として認めてもらえるのか否か、まったく目途がたたない。日々不安が募って体力も弱ってきている。これから先、真っ暗でどうなる か分からない」。
その彼は、10ヶ月目にこんな手紙を書きました。「忍耐も限界に達した。早く結論を出していただかなければ私は自殺する。こういう人生は耐えられない。死んだときは、私の骨の欠片もイランに送らないでくれ。骨を僕の日本の家族に渡すように」。
彼が日本に来たのは、イランの自宅で近隣諸国の放送が映る衛星テレビのパラボラとベールのない女性が載っている雑誌が警察に発見され、イランにいられなく なったからです。好きな雑誌をコンビ二で買える日本では、考えられないことですが、こういうことはイランの法律で禁じられているんです。
これも新聞で公開された話です。実際に自殺したアフガン難民も知っています。クルド系のイラン人はシャンプーを飲んだけど死ねませんでした。
難民はなぜこんなに受け入れ態勢の整っていない日本にくるのでしょう。日本で難民申請を提出した者はどんな目にあうのか、一時新聞にクローズアップされま した。アメリカがアフガニスタンを攻撃した2002年、内戦のために日本に逃れてきたアフガン難民申請者は、突然不適格者になり、「もうタリバン政府が倒 されたので、お帰りください」の返答です。アフガニスタンはこれで平和になったので、と難民申請問題は軽く片付けられました。
難民申請者 は、日本の法律に従って申請したばっかりに、えらいめにあうのです。毎月、入管の取調室に呼び出され、8時間もの尋問に堪えなければなりません。取り調べ る調査官は、その国の情勢をほとんど知らずに調べてゆくのです。それも偽者の難民に誘導するような尋問をします。調査官に「逃げてきた国の戦争状況の写真 はないのか」と尋ねられます。「アフガニスタンでは、戦争していたんだ。観光していたんじゃない、写真なんか残るわけがないでしょう。電話番号を聞かれて も、20年間の戦争で電話線はほとんど切断されてしまった。身分証明書を見せてくれと言われても、生まれた年も分からないんだから。名前はなにかと聞かれ てもファーストネームしかないんだ。敵から受けた拷問の場面を聞かれても、いちばん思い出したくないことだ」。どれだけ拷問に遭ったか、難民認定の重要な ポイントになるけれど、それを思い出すこと自体が難民にとって拷問です。
供述調書は年月を経て山のように積み重なっていきます。その調書は、第三者的な機関で審査されることもなく、入国管理局(入国拒否局と呼んだ方が正しい)と同じ機関である法務局に申請されます。
難民申請者は取り調べの他に毎月、仮放免の許可証を取りに足を運ばなければならなりません。それも必ず仮放免が出る保障はなく、理由は明かにされないま ま、その場で不法滞在者として手錠を嵌められ、収容所に送られます。入管の中で犯罪者との同居生活が始まり、ある人は4ヶ月、ある人は1年以上、それも まったく基準がありません。挙句の果てに、ある日突然あっけない幕切れが来ます。いきなり祖国に強制送還されるのです。
欧米諸国では、毎年100人単位で難民を受け容れるが、日本では多くても1年に26人(唯一たくさん受け容れたのは、アメリカの圧力でベトナム難民だけどこれは例外)。
UNHCR(国連難民高等弁務官)や日本の裁判所で難民として認められても、入管では滞在許可を拒否され突然犯罪人に陥れられるパターンが繰り返えされて います。戦争で国を追われた難民は、経済力と国際的地位のある平和な日本で二度目の拷問を受けるのです。日本は、世界の先進国と言われるだけの度量を備え てもいいのではないでしょうか。
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多民族多宗教共存都市~神戸宗教サミット 第2回
異文化共存国家~神戸宗教サミット~
2004年10月11日
会場:神戸市 神戸山手短期大学
主催:河内厚郎事務所
左:パキスタン出身の超過激派イスラム原理主義者、カンさん。
右:イランとイスラエル出身の超リベラル主義、ダリア。
宗教の討論会でカンさんが「イスラエルは、パレスチナを占領しているために、自爆テロは”自由の戦士”であり、イスラエル人が殺されても仕方がない」と語 る。しかし、そんな話は古いとダリアは、反論。イスラエルでは、ユダヤ人とアラブ人が、共存できるシステムが既に出来上がっているのに、イスラム過激派が 自爆テロを続けるから、二者を隔てる大きなコンクリートの壁を建てたり、ゲートを閉じたり、アラブ人に不利になるようなことをせざるを得ない。ニュースで は、ボーダーレスの時代に壁を建てることを批判的に報道しているけれど、実際にイスラエルに住むと、国民の命が危険にさらされるために、壁を建てざるを得 ない立場に追い込まれている。誰も壁やゲートが好きな人なんかいない。でも、「殺されても仕方がない」というカンさんのような人たちとは、対話にならず、 セキュリティーを強化していくしか仕方がない。
神戸に住んでいるユダヤ教徒でも、イスラム教徒のお店に中東の食材を買いに行き、ちゃんと共存しているのだからイスラエルだって同じよ。両側の過激派がそれを台無しにしているだけよ。
神の戸が開かれた街
自分の祖国を忘れさせる街、神戸。異なった宗教の寺院が共存するこの港町の異人館通りの山側には、北野神社の日の丸の旗が六甲の山風にはためく。海側には南の風がコーランの祈りを運んでくる。
北野神社は山際の通り。宮司の袴姿、インドのジャイナ教寺院の信徒の白い衣、ユダヤ教会の僧の黒いガウンが行き交う。ムスリムモスクのドームが聳える東西の 通りには、スリランカ、アフガニスタン、マレーシア・・・さまざまな民族衣装を纏った人々々。異国の神々が仲良く共存する街、神戸のスピリットはイデオロ ギーにはない。イデオロギーの話をすると必ず宗教間の争いが始まる。ここでは、お互いに干渉もしなければお節介もしない。街そのものが生きた文化交流の舞 台。
私が小学校の頃、父が通っていた関西ユダヤ教会には、たくさんのユダヤ貿易商が住んでい た。50人を数えることができた。神戸ムスリム教会も30年前は20~30人しか通っていない静かなモスクだった。それが圧倒的に若者が増え、パキスタ ン、マレーシャ、インドネシアやアラブ系の留学生など、今やお祭になると1500人ほども集まってくる。異人館通りには、歩いて10分以内にカトリック教 会、ギリシャ正教会、ユダヤ教会、イスラム寺院、ジャイナ教寺院、シーク教の寺院、神社、お寺巡りができる。
神戸を行きかうユダヤ人たち
神戸には、古くから貿易商がたくさん住んでいた。300年間鎖国していた日本が19世紀末に外国人に門戸を開いた港のひとつが神戸だった。そのとき訪れた 様々な外国人の中に、ユダヤ人も含まれていた。世界各地から来ていた貿易のエキスパートだったユダヤ人は、日本の経済発展には、なくてはならない存在だっ た。第一次、第二次世界大戦中にも関わらず、日本で存続したいちばん古いユダヤ人コミュニティは神戸にあり、出身地の多様さは、世界唯一。
第二次世界大戦当時、日本家屋でユダヤ教の礼拝が行われていたときに米軍の空襲で焼失した。あるユダヤ人がビジネスで失敗した家具のショールーム跡を改装し、1970年に白いモダーンなユダヤ教会を建てた。
私の父は70年代から神戸でペルシャ古美術の貿易を始めた。父が通っていたユダヤ教会には、世界各国からユダヤ商人が集っていた。ダイヤ、真珠、テキスタイルなどの貿易に勤しむユダヤ人がいた。神戸の街が持っている性格のように色んな国の人々を分け隔てなく受け入れた。
神戸のユダヤ教会は、子供時代の遊び場だった。通っていた小学校、インターナショナルスクール、カナディアン・アカデミーでは、クリスマスと同じ時期に関西ユダヤ教会では光の祭り、ハヌカを祝った。
関西ユダヤ教会
ユダヤ人の聖典トーラの巻を抱えている僧
地震後にはユダヤ人貿易商が激減し、ユダヤ人コミュニティも世代が変わってきた。シュエケ館という公開異人館の持ち主、シリア出身のシュエケ夫人は、歳も とって散歩姿を見ることもなくなった。イラク系ユダヤ人は、人種差別を受け、神戸へ逃れ、戦前から神戸に住んできた。イラク系ユダヤ人は、サダムフセイン 政権の前の王国時代、30年以上も前に長く住んでいたイラクから神戸に逃げてきたのだ(ちなみにバグダッドには、現在、たった10人しかユダヤ人が残って ない)。
左:ニューヨーク出身のユダヤ人。右:近所に住んでいた真珠とダイヤの貿易をしていたトルコ系ユダヤ人。彼は、神戸の最後のユダヤ商人。
今や、古い時代から神戸に残っているユダヤ人は、私と母を含め、数人しかいない。
ユダヤ教のお祭りでは食卓を囲む人たちからヘブライ語、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、ペルシャ語が飛び交う。ラビのいつものお説教もざわめきとワインの酔いのなかに消えさっていく。
地震後、ユダヤコミュニティーの多数を占めているのはユダヤ商人に変わって、若いイスラエル人の露天商。旧いユダヤ人が遠のいてゆく教会には、大学の英語の教授や留学生、そして、3年間の兵役を終えた若いイスラエル人。
大震災後、初めて専従責任者に就いたラビ(僧)は、とても敬虔な正統派。ラビは俗界の北野町に住みながら、厳格にユダヤ教の律法を守っている。
毎日聖書を読むことがラビの仕事。安息日が始まる金曜日の日没になると蝋燭を灯し、次の日の日没まで教会で聖書を読む。神様は天地創造のために6日間働かれ、すべてうまくできたので7日目に休まれた、と旧約聖書に記されている。
安 息日は、車、自転車、タバコ、買い物など一切の労働を断たなければならない。電気のスイッチにすら触れてはならない。原始時代から火を点けることは大変な 仕事だったので、電気を点けたり消したりすることは許されず、前の日から点けっぱなしにしておく。電気やガスのスイッチもオン・オフすることが許されず、 冷えた料理を食べるか、あらかじめ保温器に載せ、ティーバックも初めからお湯に浸けておく。袋から取り出すことは立派な労働で、まして沸騰したお湯に入れ たら料理をすることと等しい。トイレットペーパーは使っても良いけど、ちぎるのは禁止。だから初めからちぎって置いておく。
ユダヤ人の平日も宗教的な制約が付きまとう。聖書の記述“親と子を同じ釜で調理してはならない”に従って、肉類と乳製品を同じ皿に盛っても、一緒に食してもいけない。肉用のお皿と乳製品のお皿を別けて洗わければならない。
北野のラビは、難波や心斎橋に出かけて、若いイスラエルの露天商人を敬虔なユダヤ教徒に改宗させる。イスラエルの若者は放浪して自由な生活をしているが、いきなり敬虔なユダヤ教徒に生まれ変わる者もいる。
露天で偽ヴィトンを売っているイスラエル人が警察に捕まったとき、ラビは正装して警察署に出かける。黒いフェルト帽に黒いスーツ、それに螺旋状にカールした長い揉み上げ。
18世紀のポーランド・ファッションのラビが何をしに神戸の生田警察署に来たのか、受付の女性は、おっとびっくり。「拘置所に入れられているイスラエル人にユ ダヤの法に基づいた食事を出してくれないか?」と尋ねる。もちろん警察の答えは「特別扱いはできない。そうしたいユダヤ人は、捕まらないことだね」
Special thanks to Perry Marovich for the photographs of Jewish Community of Kansai
多民族多宗教共存都市~神戸宗教サミット 第1回
異郷の神々が共存する神戸発、神戸宗教サミット 2004年1月30日
異民族・多宗教共存都市 フォーラム
下記のような方々がフォーラムで熱く燃えました。
長嶋賢一郎 司会 (朝日放送アナウンサー)
河内厚郎 (かわうちあつろう) 一橋大学卒 演劇評論家及び文化プロデューサー兵庫県阪神淡路大震災復興十周年企画委員。NHK番組審議員・毎日新聞紙面審議員などを歴任。夙川学院短期大学教授。 「はびきの市民大学」学長。 関西文学編集長。
佐藤典久 (さとうのりひさ)北野天満神社宮司。北野国際まつり実行委員事務局。霊験あらたかな学問の神様菅原道真公をお祀りする由緒ある神社です。治承4年(西暦 1180年)の6月、平清盛公が、京都から神戸に都を移し、「福原の都」をつくるに当たって禁裡守護、鬼門鎮護の神として、京都北野天満宮勧請して祀られ た古い歴史を持っています。
ダリア・アナビアン テヘラン生まれ。母はイラン人、父はイスラエル人という両親の下に生まれる。国際学校法人カナディアン・アカデミー卒業。NHKの「シルクロードロマン の旅 」などの番組レポーターとして活躍。
Dr.サタル・ラジ カ ブール大学卒業で日本在住30年のアフガン人。パシュクン人出身で多くの日本人ジャーナリストをアフガンにコーディネート。ダリア氏とも親しい。大阪大学 文学部東洋史学科博士課程終了言葉は パシェート語 ペルシャ語 (ダリー語 アラビア語 英語 日本語 ドイツ語に堪能。
第 二部 アラビアンナイト 花咲き乱れる平和な町に暮らす王子。しかし彼は砂漠の精霊に愛する姫を略奪されいまだその姫を思い続けている・・・・・・・。 日本人が感じる中近東のイメージを中心に、歌と踊りのショーを展開。元OSKのメンバーで繰り広げられる、異文化理解のための素晴らしいショー。
始まる前の緊張・・・
ファースト・メッセージ
長嶋 神 戸は、2005年に震災10周年の節目を迎えようとしています。これを機に兵庫県復興十年事業委員会の社会・文化部会企画員の河内厚郎氏の呼びかけに応じ て、今回のフォーラムが始まりました。全く中立の立場から「宗教」を「文化」の一つとして見てみようと、今日は4人のパネリストによるトークを始めたいと 思います。第一部のフォーラムでは、神戸・北野をこよなく愛する下記パネリスが、イデオロギーを超えてどうしたら異文化が共存できるか熱く語ります。
河内 神戸北野地域には、「北野天満宮」から始まり「ユダヤ教会」「浄福寺」「ムスリムモスク」「バブテスト教会」「カトリック教会」「一宮神社」「ジャイナ教寺院」等 多数の異宗教施設がわずか徒歩10分圏内に共存しております。
世界各地で宗教が様々な地域紛争の種となっている昨今、神戸・北野という場で異なる宗教がそれぞれの個性を尊重しあいながら共生しているという現実は、世界的にみると貴重な“ユートピア”とも思えます。
また、先の大震災の折にもこの共存は“争い”の種になるのではなく“復興”の源として機能してきたといえます。
ここには世界各地から集まった、さまざまな民族や宗教、異なる文化が、それぞれの個性を尊重しながら平和裡に共存してきました。それは、各宗派を異文化の一つとして暖かく迎え入れ排除することなく、よい関係を築いてきた歴史があればこそでしょう。
(こうした伝統は、海にひらかれた国際都市を建設しようとした平清盛の福原遷都に遡ります。さらに遡れば、7世紀半ば、インドから渡来した法道仙人が摩耶山天上寺を開いたことにたどりつきます。当時のインドはまだ仏教も多かったわけです)
ダリア 河 内先生のご紹介のように、私は色んな国の寺院に10分で行ける中心に住んでいます。4歳の時に来日し、カナディアン・アカデミーという国際学校へ通いまし た。その時の友人は北野の異人館に普通に住んでいました。でも、ここは観光都市になってずいぶんと変わりました。もともとこの辺りは色んな国の人たちが共 存していました。
私も神戸の大震災に遇いました。でも関東大震災の被災者がやった在日の人たちに対するリンチ事件の悲劇とはぜんぜん違って、在日韓国人たちが焼肉やキムチを振舞ってくれました。だから、神戸では、もうすでに本当の国際交流をやっているんです。
長嶋 そ うですね。出身国の人が自然と、その国の人がやっているレストランの食べ物を配っていましたね。神戸には色んな外国の物がありますね。この会場にも80年 前の遊牧民の絨毯がしかれているんですよ。入り口にあるペルシャ錦やペルシャ書道も、ダリアさんの家からぜんぶ今日持ってきて展示しているんです。
ダリア なんか今日は、自分の家にいるみたい。(笑)
佐藤 父 の時代からやってきた北野祭りの跡継ぎです。北野の人たちは北野神社の氏子(うじこ)です。北野祭りは、色んな宗教を超えて1979年に初めてからもう 24年目になります。その始まりは、私が小学校5年生でした。神社のステージで色んな国の歌や踊りをエンターテインメントでやってきました。また平和の祈 りの行事もあり、ユダヤ教、イスラム教など自分の宗教のやり方で世界平和を共に祈ります。こういうのは、日本ではここだけやー。祈りは、それぞれの宗教の 形式でよいのです。神社は何教でもOK。日本は、昔から八百万の神々がいて、色んな宗教の融合ができます。
ラジ 在 日29年になります。最初は、国費留学生で来日し、大阪外大から阪大へ進みました。今は、大阪の中津に住んでいます。今57歳になり、半分以上は日本に住 み、生きた歴史を見てきました。日本に来た始めはモスクに行ってましたが、神戸は大阪と異なり国際都市だと思いました。あのころは外国人が少なくて英語が 通じる街でした。でも、今になって英語で話されても、困ります。英語を忘れて、日本語の方が楽になりました。
フリー・トーク
河内 ダリアさんのことを紹介するだけで神戸が国際都市だと分かるんですよ。
ダリア 私は、ずっとここに住んでいまして、1979年にホメイニ革命が起こったから、それ以来21年間、国へ帰れなかったのです。何故かというと、イランはイス ラム一色になりました。私はイラン人でも、ユダヤ教だから、帰るのが難しかったのです。今のイランでは毎週金曜日になると、モスクで「アメリカは悪魔、イ スラエルも悪魔」と唱える行事があります。革命以降、25年間もそう唱えてきました。寺院は、平和を祈るべき場所なのに、ずっと罵ってばかりです。イラン はアメリカのことを悪魔と呼び、アメリカのブッシュもイランを悪の枢軸と呼びました。お互いを悪魔と認め合いました。
でも、イランは2500年前 のペルシャ帝国時代には、今日のフォーラムのタイトルにありますように、他民族・多宗教をペルシャ帝国の理念としていたのです。25年前までは、イラン は、実はそうだったのです。私は、父がイスラエル人で母がイラン人です。イラン人でイスラエル人という“?”の存在です。
ラジ 私は(一応)イスラム教徒です。イランはホメイニ革命がありましたが、アフガニスタンとは兄弟国なのです。古代から一つの国でしたが、250年前に分離し ました。現代でも両国の文学、歴史、経済の何れがどうか分からないほど近いのです。ホメイニ革命後にアフガニスタンは、次々と他国の侵略を受けて国が弱体 化していきました。
そこで民族紛争が生まれました。政治家の指導者がいなくなり、イスラム教が中心になってから市民同士がぶつかり合うようになり ました。学校がなくなり、子供たちはモスクへ勉強しに行かされるのです。何を教えられても子供たちは、それは何故って質問することがないのです。アフガニ スタンは、教育程度が低すぎます。
河内 ダリアさんは、小さい時、日本に来たわけだけど、宗教についてどう思う?
ダリア:私たちは、普通にカフェやレストランへ行って、楽しんでいますが、イランではレストランに出かけることすら難しいのです。人が固まると警備警察の人が来て、色んな質問をすることがよくあります。
神戸では旗あげて観光客が来ています。でも、神戸の実像も知ってほしいです。この間、トルコでシナゴーグ(ユダヤ教会)の爆破がありましたね。そのとき神戸のユダヤ教会もテロリストに目をつけられているという風にみなきゃいけないのです。
子供の時、自由にシナゴーグに行っていましたが、今は、ユダヤのお祭りがあるときは、必ず警察官が4人ぐらい来ています。今日も、ここに生田警察の刑事の方々が来ています。いつもお世話になっています。
また、インドとパキスタンの紛争があると、神戸の大きいインド・コミュニティーにもなんらかの影響があります。神戸は世界の各地と点で繋がっているのです。神戸が世界情勢に影響されるということは、逆に神戸からも、平和を発信することができるはずです。
長島 異人館に旗上げて来る神戸で終わってほしくないですね。ダリアさんはカナディアン・アカデミー卒ですね。
ダリア 長嶋さんはどこの卒業ですか?
長嶋 私も、近くの上野中学校でしたが、カナディアン、長峰中とよく喧嘩しましたが心は繋がっていましたね。
ダリア 私も喧嘩していました。喧嘩が生きがいでした。神戸がいつまでも観光都市でよいのだろうか?
普段、仕事は大阪でやっているんですが、大阪って不細工な町並みですねぇ。それはそれで好きなんですが・・・ただ一つ一つのビルがそこに建ってるだけって感じ。でも神戸は、街全体のビジョンをもって、ビルを建てていますよね。だから街に高級感とハーモニーがあるんですね。
河内 でも、このすぐ近くにラブホテルもある(笑)
ダリア いやー、ムード打ち壊しやねぇ。(笑)
長嶋 私は大阪に会社あるんですが・・・。神戸は震災都市で、まだ元に戻ってないですね。
河内 心の復興が難しいですね。震災のときインド人がみんな国へ帰ったげど、また戻ってきました。大きなインド・コミュニティーがあるんですね。非常時には宗教 施設が各民族のコミュニティーとして機能しますが、神戸は生きた宗教博物館のようですね。あっ!今いいキャッチフレーズが出てきました。(笑)神戸は、街 そのものが生きた宗教ミュージアムなんです。
長嶋 震災9年目になります。この間、大阪で展示された長島さんの写真展を見て、被害が風化されてはいけないと感じました。
ダリア 震災があったから、神戸は世界で有名になったんですが、今まもう忘れられています。この街は祖国を忘れさせる街。日本人だけでなく外国人と共に創ってきたからです。もう既に共存しているのだから、フィロソフィーもスローガンもいらないのです。
河内 みんな手を繋いで仲良くやりましょうとか主張してるわけでもないんですね。ふだんは、お互い干渉しないで、うまく距離をとって住んでいるんです。
長嶋 震災で変わったことはどんなことでしょう?
佐藤 震 災による変化というと、北野祭をやろうよ!と、もう4月に準備を始めました。北野神社では、生け花やお茶を通して外国人との交流しています。祭りでは一緒 に祈りを捧げます。しかし、震災の打撃が大きく北野にも祭にも人が来なくなりました。北野祭も盛り下がってしまいましたが、今は戻りつつあります。
河内 神戸が変わったのは、ダリアさんが変わったことでわかります。
ダリア 震災後から、景気が悪くなってイラン人労働者が増え、それと共にイラン人犯罪者が増え、彼らの通訳を始めました。
河内 前はタレント活動してて、キャピキャピだったのが、顔の表情に苦味が加わりました。震災があって、そこで何を学ぶか。神戸の街も苦味がかかってきたら、いっそう魅力的になるんですね。大人の街に成長してゆかなければ。
ラジ この街でみんな仲良く共存しているのは不思議ですね。色んな祭りがあって、自分の国の伝統文化があるのに、隣の祭りにも参加しているのです。
長嶋 話は変わりますが、 宗教というとダリアさんはユダヤ教ですね。豚は食べますか?
ダリア 子供の時から豚は食べちゃいけないと言われてきたので、今も食べられないのです。
ラジ それは、食べたことがないからでしょう?味が分からないから。
ダリア じゃあ、ラジさんはどうなんですか?
ラジ やはり、豚はだめです。お酒もだめなんですけど、私は飲んでいるから悪い信者です。でも豚は宗教ではなくただ嫌いです。
長嶋 神戸で美味しいレストランありますか?
ラジ 色んな国の食べ物があるけれど、やっぱり私は日本酒がいちばんいいですね。
河内 今回は、このフォーラムのイントロですが、また秋ころにも続きをやりたいですね。来年、阪神淡路大震災10周年に繋げたいのですよ。異人館の神戸から世界へ発信したい。
佐藤 もう、この際言わせてもらいますが、観光客は異人館に来た後、なんでこんな所に神社あんねん?と言われるんですよ――
河内 それは、失礼やね!
佐藤 こっちは800年も前に建ってるんですよ。
河内 神戸は、昔から国際都市で、平の清盛が開いた街なんです。しかし清盛はまだ早すぎたんですよ。700年後の明治になってから、世界に開かれました。これから、震災10年の来年に向けて続けたいものです。
那 月 俊 (なつき しゅん) 2003年5月OSK日本歌劇団解散時の最後のトップスター。2003年8月にはリーガロイヤルホテルでのディナーショー で大成功を収めた。12月、北野ネザーランズセンターでのライブ公演で歌劇の枠から飛び出した男役として新境地を開く。
2004年 1月 30日(金) 19:00~21:30
会場 神戸ネザーランズセンター
主催 神戸・北野2004実行委員会 ネザーランズセンター
後援 兵庫県 神戸市 (財)兵庫県芸術文化協会 (財)神戸国際協力文化センター
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阿倍野ヒューマンセミナー:音楽と漫才でお贈りするシルクロード
ペルシャヴァイオリンとお話
上野眞樹とダリア・アナビアンの漫才
阿倍野市民学習センター・あべのヒューマンセミナー
2004 月10 月15日
趣旨:世界各地の音楽や踊りを鑑賞したりを聞くことで文化や民族について考えます。あわせて平和、人権、人間の連帯を感じ、心繋ぐ音楽の旅ができればと思います。
ダリア:今日はえらい集まりでんなぁ。音楽だけ聴いて世界を平和にしようという凄い企画でんねん。音楽と万歳で届けるシルクロード。
上野:ヴァイオリン弾きに万歳なんかできるわけおまへんがな。二人でお手上げ。これが本当の万歳。
ダリア:今日はヴァイオリン界のヨン様、上野さんに来ていただきました・・・と誰がこんな台本書いてん。どうして上野さんがペルシャの音楽をやるんですか?
上野:そもそもヴァイオリンのルーツはペルシャでんねん。クラシック音楽は中東の音楽にもごっつい影響してまんねん。その源はやっぱりペルシャなんやろね。
ダリア:今日、私はい・ら・んことを言いながらスライド操作いたします。
過去から現代までもり沢山。ペルシャは、当時の世界の中心やったからね。
上野:言い方は失礼ですが、今でいうニューヨーク。
ダリア:何でも発祥はペルシャなんですから。最初の曲は?
上野:リムスキー・コルサコフのシェラーザード。
ダリア:あのアラビアンナイトに出てくるシェーラーザードですね。あのアラビアンナイトやて源はペルシャ。その証拠にシェラーザードってペルシャ語やねんから。
上野:へぇ、どないな意味でんねん?
ダリア:町子ちゃんいう意味や。
上野:なんや小野小町かいな。
ダリア:ここで一曲どうぞ。
PART 2
上野:そういえばしばらく顔みいひんかったね。どこに雲隠れしてたん?
ダリア:2ヶ月間テルアビブに行ってて、先週帰ってきました。
上野:テルアビブ言うたら、イスラエルの?大変なところに行ってたんやね。このスライドの写真は何でっか?イスラエルの現代彫刻?
ダリア:いやいや、これは今年の一月にできたイスラエル人とアラブ人を隔てる壁。
上野:このバリアフリーの時代にわざわざ壁を作ってまんの?
ダリア:イスラエル人がパレスチナ人を囲い込む目的で作ったん履けど、よう考えたらイスラエルが壁の中に閉じこもってしもうてるやん。
上野:けったいな話やねぇ。そんな中で生活するの大変やね。パレスチナ人も壁みながらご飯食べてもおいしないね。
ダリア:イスラエル人も大変やねんでぇ。結婚式、学校、スーパー、病院、クラブ、カフェ、どこ行っても爆弾持ってないかボディーチェックされてカバン掻き回されんねんでぇ。
上野:今までイスラエル人が一方的にパレスチナ人を家畜のように抑えつけてると思てたけど、自分らも家畜のような生活やなぁ。
ダリア:壁を避難すんのは簡単やけど、あれだけ自爆テロが生活の中で頻繁に起こったら、イスラエル人も恐怖に駆られてどんな作戦たてるかわからん。
上野:最近またバス2台爆破テロがあったみたいやね。
ダリア:バ スはしょっちゅうや。バスの入り口でカバンをチェックしてられへんからね。2台バスが爆破されたとのは叔母が住んでいるベルシェバという町で、そのとき私 はタクシーに乗ってて、ラジオからニュースが流れてきてん。バス一台爆破された・・・二台目が爆破された・・・三代目が爆破された・・・っていう風に放送 が流れた。でも三代目は間違いやってん。みんなパニックしてラジオ局にどんどん電話して色んなことを言うから放送曲も混乱状態。テレビを付けたら色んな政 治家がスタジオで議論している。「壁を作ったんが悪かった」とか「いや壁でテロリストを防止せなあかん」とか。でもみんな同時にしゃべっているから何も聞 き取れへん・・・
上野:大阪と同じやね。
ダリア:昔、シルクロードで中東は文化の交流する場やった。人と物が交わって飛躍的に発展していった。異常は状況。
上野:ドイツでは10年前に壁が壊されたのにイスラエルでは作っている。人間の作るもんには隙があるもんやね。壁を乗り越えたり、隙間から子供が出入りしてますね。
ダリア:こんな不細工な壁には漫画でも書いて笑い飛ばすしかないなぁ。
上野:お互い相手の曲は聴かへんの?お互い仲がわるかったらイスラエルはアラブ音楽聞かへんの?
ダリア:い や、それが最近イスラエルのテレビで、若いイスラエル人とアラブ人が共同のポップス音楽番組を作ってんねん。政府に向かってイスラエルもパレスチナも両方 とも間違っているというメッセージを送ってんねん。そんな好きなこと言えるようになってイスラエルもちょっとは空気変わってきたかな。異文化が存在する、 そんな豊かさこそが、人類の故郷。
上野:次の曲はニーグン。ユダヤ教の合唱長が歌う即興的な歌です。
PART 3
上野:弓で弾く楽器は愛の楽器やねん。
ダリア ・・・
上野:弓って昔は武器やったろ?それを弾いたり擦ったりして人を喜ばせる活気にしたんやから。ヴァイオリンはもともと弾いてたし。
ダリア:ルーツはペルシャのケマンチェやねん。
上野:そのケマンチェも弾けるんやで。それに日本胡弓な。おまけに日本ヴァイオリンっちゅうのも作ってな。
ダリア:日本ヴァイオリン?聞いたことないわ。
上野:そりゃあそうや。世界に一つしかない。白木のヴァイオリンに漆を縫ってもらって絹糸を貼ったんや。ゆかしい音するでぇ。
ダリア:ついでにCDの宣伝もしときや。
上野:ほな、お言葉に甘えて今言った4つの楽器を弾いて平和を祈るCD「天風」を作ったんや。これをこうてくれたら日本ヴァイオリンの音も聴けるで。
ダリア:中を開けたらチューリップのネクタイしめてヴァイオリン弾いてる写真もあるし。
上野:ひょっとしてチューリップもペルシャ原産と言いたかったんちゃうか?
ダリア:当たりや。
「神の戸が開かれた地」 ~多宗教共存都市・KOBEフォーラム~
2006年1月21日
会場:神戸市 ネザーランドセンター1F
主催:多宗教共存年KOBEフォーラム実行委員会、兵庫県、神戸市、(在兵庫県芸術文化協会)
パネリスト 左:関西文学編集長、河内厚郎
右:日本イラン文化交流協会顧問、ダリア アナビアン
山降哲雄
宗教学者 北京大学でインド哲学を学ぶ。前・国際日本文化研究センター所長
宗教というと、普通は教祖あるいは預言者がいて、教義があって、儀礼があって、お祭りがある。仏教も、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、みんなそ うですが、そろそろ賞味期限が切れつつあるのではないか。宗教が成り立つ以前に人類が共有していた宗教があったと思います。
教祖も教義も経典もない、天地万物に命が宿る、魂が存在するという考えです。日本は、それを濃厚に残している地域のひとつで、お祭りはあるが、開祖がいな いし教理もない。その替わり「場」を大事にします。土地、土地に鎮まっている神様を拝む。森や山岳を大事にするようになった。地鎮際をするのもそのためで す。神戸に坐す神、出雲に坐す神、テヘランに坐す神、パレスチナに坐す神、どの土地にも神様が坐す点で共通している。世界万物生命教と言ってもよいです。
佐藤曲久
北野天満神社宮司。同社は平清盛が福原へ遷都する際、新都を守護するため勧請した。観光地・北野という地名の由来となります。
地域に外国の方が多く住んでいますし、神社は信仰の場であると同時にコミュニティセンターの役割も果たしますので、国籍・言葉・文化・宗教が違ってもいい じゃないかということで自然に始まった祭です。オープニングのピースセレモニーでは各宗教の方に来ていただいて、うちの拝殿に上がっていただき、イスラム の方でしたらメッカの方を向いて平和のお祈りを捧げます。イスラムの方とユダヤの方がご一緒に上がってお祈りすることもあります。神道は宗教であって宗教 でないと、教えられてきました。宗教と呼ばれている中で教理経典がないのは神道だけです。山の神様とか海の神様とか、それぞれに神が宿る八百万神信仰とい う多神教ですから、他の宗教を受け容れることができます。
サニー・フランシス
インド出身。ラジオパーソナリティー。神戸市難区在住
日本人のステロタイプなところは、どんな国に対しても決め付ける傾向があります。インド人なら毎日カレーを食べている、宗教はヒンズー教だろうな。でも、 インドにはイスラム教徒が30%、クリスチャンも何千万人もいるんです。親の宗教をそのまま引き継いでいるんですが、インドにいた頃はクリスチャンスクー ルに通い、毎週日曜日に教会で懺悔を受けていたのに、日本で暮らしだすと、教会に行かないし、懺悔にも行ったことがありません。宗教に対しておおらかに なってしまいました。
後進的な入国管理局
明治以降、門戸を開いた神戸は、いろいろな外国人を受け容れ、なかにはもちろんユダヤ人も含まれていました。有名な話で、1940年から41年にかけての ことですが、ナチに迫害されたユダヤ難民が神戸に逃れてきました。リトアニアの日本大使だった杉原千畝氏が外務省の方針に背いて発行したビザでシベリア鉄 道に乗ってきたのです。そのとき、神戸は4600人ほどのユダヤ難民を受け入れました。ただし条件があったのです。アメリカなど第三国に渡る中継地として の滞在許可のみを与えられたのです。そのときにユダヤ難民が保護されていた異人館通り(山本通り)に、何のご縁で今私が住んでいるのでしょう。
あれから60年も経ちますが、日本の難民対策は1ミリも進歩していません。私は、入管で難民申請しているイラン、クルド、アフガン人の通訳を勤め、基本的人権を否定されている状況をずっと見てきました。
イランとイラクのイライラ戦争が8年間も続き、教育と仕事を奪われたたくさんの男たちが出稼ぎ労働者で日本にきました。日本はバブル期だったので労働者が 足りず、外国人労働者どうぞということで、たくさんの出稼ぎ労働者が来日しました。イラン人も日本から家族へ仕送りができました。貨幣価値が10倍違う国 で真面目に家族に仕送りしたお金で、すぐに家も建ちました。日本の会社も安く労働者を得ることができました。日本とイランの関係が友好的だったので日本の 空港で簡単にとれる観光ビザで入国し、不法に働いてもたいして問題にならなかったのです。
ところが、地震後に経済が悪化し、真っ先に皺寄 せがいったのが外国人労働者でした。何年も観光ビザで働いていた出稼ぎ労働者がどんどん首にされていき、食べてゆけなくなりました。仲間同士の借金も増 え、断れずに麻薬売買の道に引きずり込まれる人がどんどん増えてしまったのです。彼らが警察でお世話になると、私に通訳の依頼がきました。それまでタレン ト活動をしていた私は、良い人生経験と思ってアルバイトで通訳を始めたのに、事件が増えるにつれ、通訳がいつの間にか私の本業になっていたのです。初めは 警察署、しばらくしてから法廷通訳の仕事もまわってきました。
私が通訳していたある日、警察署で刑事が黙々と調書を作成している間、イラ ン人密売人が取調べ室で私と無駄話をしていたときに自慢気に言ったことです。「麻薬の客は、ほとんど10代なんだよ。このまま僕たちがこうして薬物を売り 続けたら、日本が滅びてしまう」。その密売人は12年間も真面目に働いたのに、とうとう麻薬に手を染めてしまったのです。
裁判の日には、 前に働いていた会社の社長が証人として関西から800キロも離れた千葉県から新幹線代を払ってまで来ました。彼がすっかり家族同様で心が通じ合い、仕事に は遅れたことがなかったと泣きながら証言しました。裁判官が証人に聞ききました。「あなた自身会社が破産しているのに、こんな大変な時期に新幹線代を払っ て何故わざわざここまで来たのですか?」「もし、私が会社を維持できていたら、彼をこんな目に遇わせなかっただろう」と返事をしていました。
密売人は恥じ入り、俯いたまま遠くから来てくれた社長にさよならもできなかったのです。目を転ずると裁判官の周囲の人たちはあくびをしていました。私は日本人の関心の低さとイラン人の生活水準の酷さにびっくりしました。
1300年前、ペルシャのササン朝時代(飛鳥時代)では、イランは日本の生活様式から宗教儀式にまで影響を与えたと言われています。そんな昔から深い文化交流があったのに、ここ十数年来シルクロードの文化交流は、取調べ室のなかのやり取りに代わってしまったのです。
最近は、入国管理局でイラン人難民の申請者にも出会うようになりました。顔は見たことがないけど、私がいつも手紙の翻訳をしていたイラン人が難民申請を し、収容所に放り込まれたのです。犯罪者と一緒に狭い部屋で9ヶ月も生活しつづけた彼からとうとう自殺宣言の手紙が送られてきました。「私は、日本で10 年間真面目に働き、日本人の家族と一緒に住んできた。難民申請をすると法務局に却下され、その結果、不法滞在でここに収容されている。入管の収容所で9ヶ 月間も待っているのに難民として認めてもらえるのか否か、まったく目途がたたない。日々不安が募って体力も弱ってきている。これから先、真っ暗でどうなる か分からない」。
その彼は、10ヶ月目にこんな手紙を書きました。「忍耐も限界に達した。早く結論を出していただかなければ私は自殺する。こういう人生は耐えられない。死んだときは、私の骨の欠片もイランに送らないでくれ。骨を僕の日本の家族に渡すように」。
彼が日本に来たのは、イランの自宅で近隣諸国の放送が映る衛星テレビのパラボラとベールのない女性が載っている雑誌が警察に発見され、イランにいられなく なったからです。好きな雑誌をコンビ二で買える日本では、考えられないことですが、こういうことはイランの法律で禁じられているんです。
これも新聞で公開された話です。実際に自殺したアフガン難民も知っています。クルド系のイラン人はシャンプーを飲んだけど死ねませんでした。
難民はなぜこんなに受け入れ態勢の整っていない日本にくるのでしょう。日本で難民申請を提出した者はどんな目にあうのか、一時新聞にクローズアップされま した。アメリカがアフガニスタンを攻撃した2002年、内戦のために日本に逃れてきたアフガン難民申請者は、突然不適格者になり、「もうタリバン政府が倒 されたので、お帰りください」の返答です。アフガニスタンはこれで平和になったので、と難民申請問題は軽く片付けられました。
難民申請者 は、日本の法律に従って申請したばっかりに、えらいめにあうのです。毎月、入管の取調室に呼び出され、8時間もの尋問に堪えなければなりません。取り調べ る調査官は、その国の情勢をほとんど知らずに調べてゆくのです。それも偽者の難民に誘導するような尋問をします。調査官に「逃げてきた国の戦争状況の写真 はないのか」と尋ねられます。「アフガニスタンでは、戦争していたんだ。観光していたんじゃない、写真なんか残るわけがないでしょう。電話番号を聞かれて も、20年間の戦争で電話線はほとんど切断されてしまった。身分証明書を見せてくれと言われても、生まれた年も分からないんだから。名前はなにかと聞かれ てもファーストネームしかないんだ。敵から受けた拷問の場面を聞かれても、いちばん思い出したくないことだ」。どれだけ拷問に遭ったか、難民認定の重要な ポイントになるけれど、それを思い出すこと自体が難民にとって拷問です。
供述調書は年月を経て山のように積み重なっていきます。その調書は、第三者的な機関で審査されることもなく、入国管理局(入国拒否局と呼んだ方が正しい)と同じ機関である法務局に申請されます。
難民申請者は取り調べの他に毎月、仮放免の許可証を取りに足を運ばなければならなりません。それも必ず仮放免が出る保障はなく、理由は明かにされないま ま、その場で不法滞在者として手錠を嵌められ、収容所に送られます。入管の中で犯罪者との同居生活が始まり、ある人は4ヶ月、ある人は1年以上、それも まったく基準がありません。挙句の果てに、ある日突然あっけない幕切れが来ます。いきなり祖国に強制送還されるのです。
欧米諸国では、毎年100人単位で難民を受け容れるが、日本では多くても1年に26人(唯一たくさん受け容れたのは、アメリカの圧力でベトナム難民だけどこれは例外)。
UNHCR(国連難民高等弁務官)や日本の裁判所で難民として認められても、入管では滞在許可を拒否され突然犯罪人に陥れられるパターンが繰り返えされて います。戦争で国を追われた難民は、経済力と国際的地位のある平和な日本で二度目の拷問を受けるのです。日本は、世界の先進国と言われるだけの度量を備え てもいいのではないでしょうか。
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多民族多宗教共存都市~神戸宗教サミット 第2回
異文化共存国家~神戸宗教サミット~
2004年10月11日
会場:神戸市 神戸山手短期大学
主催:河内厚郎事務所
左:パキスタン出身の超過激派イスラム原理主義者、カンさん。
右:イランとイスラエル出身の超リベラル主義、ダリア。
宗教の討論会でカンさんが「イスラエルは、パレスチナを占領しているために、自爆テロは”自由の戦士”であり、イスラエル人が殺されても仕方がない」と語 る。しかし、そんな話は古いとダリアは、反論。イスラエルでは、ユダヤ人とアラブ人が、共存できるシステムが既に出来上がっているのに、イスラム過激派が 自爆テロを続けるから、二者を隔てる大きなコンクリートの壁を建てたり、ゲートを閉じたり、アラブ人に不利になるようなことをせざるを得ない。ニュースで は、ボーダーレスの時代に壁を建てることを批判的に報道しているけれど、実際にイスラエルに住むと、国民の命が危険にさらされるために、壁を建てざるを得 ない立場に追い込まれている。誰も壁やゲートが好きな人なんかいない。でも、「殺されても仕方がない」というカンさんのような人たちとは、対話にならず、 セキュリティーを強化していくしか仕方がない。
神戸に住んでいるユダヤ教徒でも、イスラム教徒のお店に中東の食材を買いに行き、ちゃんと共存しているのだからイスラエルだって同じよ。両側の過激派がそれを台無しにしているだけよ。
神の戸が開かれた街
自分の祖国を忘れさせる街、神戸。異なった宗教の寺院が共存するこの港町の異人館通りの山側には、北野神社の日の丸の旗が六甲の山風にはためく。海側には南の風がコーランの祈りを運んでくる。
北野神社は山際の通り。宮司の袴姿、インドのジャイナ教寺院の信徒の白い衣、ユダヤ教会の僧の黒いガウンが行き交う。ムスリムモスクのドームが聳える東西の 通りには、スリランカ、アフガニスタン、マレーシア・・・さまざまな民族衣装を纏った人々々。異国の神々が仲良く共存する街、神戸のスピリットはイデオロ ギーにはない。イデオロギーの話をすると必ず宗教間の争いが始まる。ここでは、お互いに干渉もしなければお節介もしない。街そのものが生きた文化交流の舞 台。
私が小学校の頃、父が通っていた関西ユダヤ教会には、たくさんのユダヤ貿易商が住んでい た。50人を数えることができた。神戸ムスリム教会も30年前は20~30人しか通っていない静かなモスクだった。それが圧倒的に若者が増え、パキスタ ン、マレーシャ、インドネシアやアラブ系の留学生など、今やお祭になると1500人ほども集まってくる。異人館通りには、歩いて10分以内にカトリック教 会、ギリシャ正教会、ユダヤ教会、イスラム寺院、ジャイナ教寺院、シーク教の寺院、神社、お寺巡りができる。
神戸を行きかうユダヤ人たち
神戸には、古くから貿易商がたくさん住んでいた。300年間鎖国していた日本が19世紀末に外国人に門戸を開いた港のひとつが神戸だった。そのとき訪れた 様々な外国人の中に、ユダヤ人も含まれていた。世界各地から来ていた貿易のエキスパートだったユダヤ人は、日本の経済発展には、なくてはならない存在だっ た。第一次、第二次世界大戦中にも関わらず、日本で存続したいちばん古いユダヤ人コミュニティは神戸にあり、出身地の多様さは、世界唯一。
第二次世界大戦当時、日本家屋でユダヤ教の礼拝が行われていたときに米軍の空襲で焼失した。あるユダヤ人がビジネスで失敗した家具のショールーム跡を改装し、1970年に白いモダーンなユダヤ教会を建てた。
私の父は70年代から神戸でペルシャ古美術の貿易を始めた。父が通っていたユダヤ教会には、世界各国からユダヤ商人が集っていた。ダイヤ、真珠、テキスタイルなどの貿易に勤しむユダヤ人がいた。神戸の街が持っている性格のように色んな国の人々を分け隔てなく受け入れた。
神戸のユダヤ教会は、子供時代の遊び場だった。通っていた小学校、インターナショナルスクール、カナディアン・アカデミーでは、クリスマスと同じ時期に関西ユダヤ教会では光の祭り、ハヌカを祝った。
関西ユダヤ教会の僧の子供
紀元前二世紀、ヘレニズム文明が広まり、ユダヤの掟が禁じられ、割礼や安息日を守ることや律法の勉強が禁じられた。ギリシャ軍がユダヤ神殿を占拠して、燭台
に炎を灯すための油壷をぜんぶ壊してしまった。ユダヤ人がギリシャ軍をやっつけて神殿を解放しとき、ひとつだけ油壷が見つかった。一日分の油しか入ってい
なかったのに8日間も燃えつづけた。その炎は、ユダヤ人が滅びない証だった。この奇跡を記念して、ハヌカ祭では毎晩、燭台の8本のキャンドルに一本ずつ灯
してゆく。子供にとっては、日本のお正月を迎えるような楽しみだった。クリスマスを盛大に祝っていたキリスト教にならって、ユダヤ人の子供も取り残されな
いようにプレゼントやお年玉をもらい、年越しドーナッツをご馳走になった。
年越しドーナッツ
オーブンから取り出したほかほか年越しドーナッツ
関西ユダヤ教会
阪
神大震災で、関西ユダヤ教会の建物も被害を受けた。礼拝堂の正面に打ち付けられていたモーセの十戒を刻んだ大理石の石板が真二つに割れた。世界に散らばっ
ているユダヤ人が浄財を送り、元の白い教会に蘇ったが、自然災害が人間への戒めであることを忘れないために、割れた十戒の石板はそのまま会堂に安置され
た。
ユダヤ人の聖典トーラの巻を抱えている僧
地震後にはユダヤ人貿易商が激減し、ユダヤ人コミュニティも世代が変わってきた。シュエケ館という公開異人館の持ち主、シリア出身のシュエケ夫人は、歳も とって散歩姿を見ることもなくなった。イラク系ユダヤ人は、人種差別を受け、神戸へ逃れ、戦前から神戸に住んできた。イラク系ユダヤ人は、サダムフセイン 政権の前の王国時代、30年以上も前に長く住んでいたイラクから神戸に逃げてきたのだ(ちなみにバグダッドには、現在、たった10人しかユダヤ人が残って ない)。
左:ニューヨーク出身のユダヤ人。右:近所に住んでいた真珠とダイヤの貿易をしていたトルコ系ユダヤ人。彼は、神戸の最後のユダヤ商人。
今や、古い時代から神戸に残っているユダヤ人は、私と母を含め、数人しかいない。
ユダヤ教のお祭りでは食卓を囲む人たちからヘブライ語、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、ペルシャ語が飛び交う。ラビのいつものお説教もざわめきとワインの酔いのなかに消えさっていく。
地震後、ユダヤコミュニティーの多数を占めているのはユダヤ商人に変わって、若いイスラエル人の露天商。旧いユダヤ人が遠のいてゆく教会には、大学の英語の教授や留学生、そして、3年間の兵役を終えた若いイスラエル人。
大震災後、初めて専従責任者に就いたラビ(僧)は、とても敬虔な正統派。ラビは俗界の北野町に住みながら、厳格にユダヤ教の律法を守っている。
毎日聖書を読むことがラビの仕事。安息日が始まる金曜日の日没になると蝋燭を灯し、次の日の日没まで教会で聖書を読む。神様は天地創造のために6日間働かれ、すべてうまくできたので7日目に休まれた、と旧約聖書に記されている。
安 息日は、車、自転車、タバコ、買い物など一切の労働を断たなければならない。電気のスイッチにすら触れてはならない。原始時代から火を点けることは大変な 仕事だったので、電気を点けたり消したりすることは許されず、前の日から点けっぱなしにしておく。電気やガスのスイッチもオン・オフすることが許されず、 冷えた料理を食べるか、あらかじめ保温器に載せ、ティーバックも初めからお湯に浸けておく。袋から取り出すことは立派な労働で、まして沸騰したお湯に入れ たら料理をすることと等しい。トイレットペーパーは使っても良いけど、ちぎるのは禁止。だから初めからちぎって置いておく。
ユダヤ人の平日も宗教的な制約が付きまとう。聖書の記述“親と子を同じ釜で調理してはならない”に従って、肉類と乳製品を同じ皿に盛っても、一緒に食してもいけない。肉用のお皿と乳製品のお皿を別けて洗わければならない。
北野のラビは、難波や心斎橋に出かけて、若いイスラエルの露天商人を敬虔なユダヤ教徒に改宗させる。イスラエルの若者は放浪して自由な生活をしているが、いきなり敬虔なユダヤ教徒に生まれ変わる者もいる。
露天で偽ヴィトンを売っているイスラエル人が警察に捕まったとき、ラビは正装して警察署に出かける。黒いフェルト帽に黒いスーツ、それに螺旋状にカールした長い揉み上げ。
18世紀のポーランド・ファッションのラビが何をしに神戸の生田警察署に来たのか、受付の女性は、おっとびっくり。「拘置所に入れられているイスラエル人にユ ダヤの法に基づいた食事を出してくれないか?」と尋ねる。もちろん警察の答えは「特別扱いはできない。そうしたいユダヤ人は、捕まらないことだね」
Special thanks to Perry Marovich for the photographs of Jewish Community of Kansai
多民族多宗教共存都市~神戸宗教サミット 第1回
異郷の神々が共存する神戸発、神戸宗教サミット 2004年1月30日
異民族・多宗教共存都市 フォーラム
下記のような方々がフォーラムで熱く燃えました。
長嶋賢一郎 司会 (朝日放送アナウンサー)
河内厚郎 (かわうちあつろう) 一橋大学卒 演劇評論家及び文化プロデューサー兵庫県阪神淡路大震災復興十周年企画委員。NHK番組審議員・毎日新聞紙面審議員などを歴任。夙川学院短期大学教授。 「はびきの市民大学」学長。 関西文学編集長。
佐藤典久 (さとうのりひさ)北野天満神社宮司。北野国際まつり実行委員事務局。霊験あらたかな学問の神様菅原道真公をお祀りする由緒ある神社です。治承4年(西暦 1180年)の6月、平清盛公が、京都から神戸に都を移し、「福原の都」をつくるに当たって禁裡守護、鬼門鎮護の神として、京都北野天満宮勧請して祀られ た古い歴史を持っています。
ダリア・アナビアン テヘラン生まれ。母はイラン人、父はイスラエル人という両親の下に生まれる。国際学校法人カナディアン・アカデミー卒業。NHKの「シルクロードロマン の旅 」などの番組レポーターとして活躍。
Dr.サタル・ラジ カ ブール大学卒業で日本在住30年のアフガン人。パシュクン人出身で多くの日本人ジャーナリストをアフガンにコーディネート。ダリア氏とも親しい。大阪大学 文学部東洋史学科博士課程終了言葉は パシェート語 ペルシャ語 (ダリー語 アラビア語 英語 日本語 ドイツ語に堪能。
第 二部 アラビアンナイト 花咲き乱れる平和な町に暮らす王子。しかし彼は砂漠の精霊に愛する姫を略奪されいまだその姫を思い続けている・・・・・・・。 日本人が感じる中近東のイメージを中心に、歌と踊りのショーを展開。元OSKのメンバーで繰り広げられる、異文化理解のための素晴らしいショー。
始まる前の緊張・・・
ファースト・メッセージ
長嶋 神 戸は、2005年に震災10周年の節目を迎えようとしています。これを機に兵庫県復興十年事業委員会の社会・文化部会企画員の河内厚郎氏の呼びかけに応じ て、今回のフォーラムが始まりました。全く中立の立場から「宗教」を「文化」の一つとして見てみようと、今日は4人のパネリストによるトークを始めたいと 思います。第一部のフォーラムでは、神戸・北野をこよなく愛する下記パネリスが、イデオロギーを超えてどうしたら異文化が共存できるか熱く語ります。
河内 神戸北野地域には、「北野天満宮」から始まり「ユダヤ教会」「浄福寺」「ムスリムモスク」「バブテスト教会」「カトリック教会」「一宮神社」「ジャイナ教寺院」等 多数の異宗教施設がわずか徒歩10分圏内に共存しております。
世界各地で宗教が様々な地域紛争の種となっている昨今、神戸・北野という場で異なる宗教がそれぞれの個性を尊重しあいながら共生しているという現実は、世界的にみると貴重な“ユートピア”とも思えます。
また、先の大震災の折にもこの共存は“争い”の種になるのではなく“復興”の源として機能してきたといえます。
ここには世界各地から集まった、さまざまな民族や宗教、異なる文化が、それぞれの個性を尊重しながら平和裡に共存してきました。それは、各宗派を異文化の一つとして暖かく迎え入れ排除することなく、よい関係を築いてきた歴史があればこそでしょう。
(こうした伝統は、海にひらかれた国際都市を建設しようとした平清盛の福原遷都に遡ります。さらに遡れば、7世紀半ば、インドから渡来した法道仙人が摩耶山天上寺を開いたことにたどりつきます。当時のインドはまだ仏教も多かったわけです)
ダリア 河 内先生のご紹介のように、私は色んな国の寺院に10分で行ける中心に住んでいます。4歳の時に来日し、カナディアン・アカデミーという国際学校へ通いまし た。その時の友人は北野の異人館に普通に住んでいました。でも、ここは観光都市になってずいぶんと変わりました。もともとこの辺りは色んな国の人たちが共 存していました。
私も神戸の大震災に遇いました。でも関東大震災の被災者がやった在日の人たちに対するリンチ事件の悲劇とはぜんぜん違って、在日韓国人たちが焼肉やキムチを振舞ってくれました。だから、神戸では、もうすでに本当の国際交流をやっているんです。
長嶋 そ うですね。出身国の人が自然と、その国の人がやっているレストランの食べ物を配っていましたね。神戸には色んな外国の物がありますね。この会場にも80年 前の遊牧民の絨毯がしかれているんですよ。入り口にあるペルシャ錦やペルシャ書道も、ダリアさんの家からぜんぶ今日持ってきて展示しているんです。
ダリア なんか今日は、自分の家にいるみたい。(笑)
佐藤 父 の時代からやってきた北野祭りの跡継ぎです。北野の人たちは北野神社の氏子(うじこ)です。北野祭りは、色んな宗教を超えて1979年に初めてからもう 24年目になります。その始まりは、私が小学校5年生でした。神社のステージで色んな国の歌や踊りをエンターテインメントでやってきました。また平和の祈 りの行事もあり、ユダヤ教、イスラム教など自分の宗教のやり方で世界平和を共に祈ります。こういうのは、日本ではここだけやー。祈りは、それぞれの宗教の 形式でよいのです。神社は何教でもOK。日本は、昔から八百万の神々がいて、色んな宗教の融合ができます。
ラジ 在 日29年になります。最初は、国費留学生で来日し、大阪外大から阪大へ進みました。今は、大阪の中津に住んでいます。今57歳になり、半分以上は日本に住 み、生きた歴史を見てきました。日本に来た始めはモスクに行ってましたが、神戸は大阪と異なり国際都市だと思いました。あのころは外国人が少なくて英語が 通じる街でした。でも、今になって英語で話されても、困ります。英語を忘れて、日本語の方が楽になりました。
フリー・トーク
河内 ダリアさんのことを紹介するだけで神戸が国際都市だと分かるんですよ。
ダリア 私は、ずっとここに住んでいまして、1979年にホメイニ革命が起こったから、それ以来21年間、国へ帰れなかったのです。何故かというと、イランはイス ラム一色になりました。私はイラン人でも、ユダヤ教だから、帰るのが難しかったのです。今のイランでは毎週金曜日になると、モスクで「アメリカは悪魔、イ スラエルも悪魔」と唱える行事があります。革命以降、25年間もそう唱えてきました。寺院は、平和を祈るべき場所なのに、ずっと罵ってばかりです。イラン はアメリカのことを悪魔と呼び、アメリカのブッシュもイランを悪の枢軸と呼びました。お互いを悪魔と認め合いました。
でも、イランは2500年前 のペルシャ帝国時代には、今日のフォーラムのタイトルにありますように、他民族・多宗教をペルシャ帝国の理念としていたのです。25年前までは、イラン は、実はそうだったのです。私は、父がイスラエル人で母がイラン人です。イラン人でイスラエル人という“?”の存在です。
ラジ 私は(一応)イスラム教徒です。イランはホメイニ革命がありましたが、アフガニスタンとは兄弟国なのです。古代から一つの国でしたが、250年前に分離し ました。現代でも両国の文学、歴史、経済の何れがどうか分からないほど近いのです。ホメイニ革命後にアフガニスタンは、次々と他国の侵略を受けて国が弱体 化していきました。
そこで民族紛争が生まれました。政治家の指導者がいなくなり、イスラム教が中心になってから市民同士がぶつかり合うようになり ました。学校がなくなり、子供たちはモスクへ勉強しに行かされるのです。何を教えられても子供たちは、それは何故って質問することがないのです。アフガニ スタンは、教育程度が低すぎます。
河内 ダリアさんは、小さい時、日本に来たわけだけど、宗教についてどう思う?
ダリア:私たちは、普通にカフェやレストランへ行って、楽しんでいますが、イランではレストランに出かけることすら難しいのです。人が固まると警備警察の人が来て、色んな質問をすることがよくあります。
神戸では旗あげて観光客が来ています。でも、神戸の実像も知ってほしいです。この間、トルコでシナゴーグ(ユダヤ教会)の爆破がありましたね。そのとき神戸のユダヤ教会もテロリストに目をつけられているという風にみなきゃいけないのです。
子供の時、自由にシナゴーグに行っていましたが、今は、ユダヤのお祭りがあるときは、必ず警察官が4人ぐらい来ています。今日も、ここに生田警察の刑事の方々が来ています。いつもお世話になっています。
また、インドとパキスタンの紛争があると、神戸の大きいインド・コミュニティーにもなんらかの影響があります。神戸は世界の各地と点で繋がっているのです。神戸が世界情勢に影響されるということは、逆に神戸からも、平和を発信することができるはずです。
長島 異人館に旗上げて来る神戸で終わってほしくないですね。ダリアさんはカナディアン・アカデミー卒ですね。
ダリア 長嶋さんはどこの卒業ですか?
長嶋 私も、近くの上野中学校でしたが、カナディアン、長峰中とよく喧嘩しましたが心は繋がっていましたね。
ダリア 私も喧嘩していました。喧嘩が生きがいでした。神戸がいつまでも観光都市でよいのだろうか?
普段、仕事は大阪でやっているんですが、大阪って不細工な町並みですねぇ。それはそれで好きなんですが・・・ただ一つ一つのビルがそこに建ってるだけって感じ。でも神戸は、街全体のビジョンをもって、ビルを建てていますよね。だから街に高級感とハーモニーがあるんですね。
河内 でも、このすぐ近くにラブホテルもある(笑)
ダリア いやー、ムード打ち壊しやねぇ。(笑)
長嶋 私は大阪に会社あるんですが・・・。神戸は震災都市で、まだ元に戻ってないですね。
河内 心の復興が難しいですね。震災のときインド人がみんな国へ帰ったげど、また戻ってきました。大きなインド・コミュニティーがあるんですね。非常時には宗教 施設が各民族のコミュニティーとして機能しますが、神戸は生きた宗教博物館のようですね。あっ!今いいキャッチフレーズが出てきました。(笑)神戸は、街 そのものが生きた宗教ミュージアムなんです。
長嶋 震災9年目になります。この間、大阪で展示された長島さんの写真展を見て、被害が風化されてはいけないと感じました。
ダリア 震災があったから、神戸は世界で有名になったんですが、今まもう忘れられています。この街は祖国を忘れさせる街。日本人だけでなく外国人と共に創ってきたからです。もう既に共存しているのだから、フィロソフィーもスローガンもいらないのです。
河内 みんな手を繋いで仲良くやりましょうとか主張してるわけでもないんですね。ふだんは、お互い干渉しないで、うまく距離をとって住んでいるんです。
長嶋 震災で変わったことはどんなことでしょう?
佐藤 震 災による変化というと、北野祭をやろうよ!と、もう4月に準備を始めました。北野神社では、生け花やお茶を通して外国人との交流しています。祭りでは一緒 に祈りを捧げます。しかし、震災の打撃が大きく北野にも祭にも人が来なくなりました。北野祭も盛り下がってしまいましたが、今は戻りつつあります。
河内 神戸が変わったのは、ダリアさんが変わったことでわかります。
ダリア 震災後から、景気が悪くなってイラン人労働者が増え、それと共にイラン人犯罪者が増え、彼らの通訳を始めました。
河内 前はタレント活動してて、キャピキャピだったのが、顔の表情に苦味が加わりました。震災があって、そこで何を学ぶか。神戸の街も苦味がかかってきたら、いっそう魅力的になるんですね。大人の街に成長してゆかなければ。
ラジ この街でみんな仲良く共存しているのは不思議ですね。色んな祭りがあって、自分の国の伝統文化があるのに、隣の祭りにも参加しているのです。
長嶋 話は変わりますが、 宗教というとダリアさんはユダヤ教ですね。豚は食べますか?
ダリア 子供の時から豚は食べちゃいけないと言われてきたので、今も食べられないのです。
ラジ それは、食べたことがないからでしょう?味が分からないから。
ダリア じゃあ、ラジさんはどうなんですか?
ラジ やはり、豚はだめです。お酒もだめなんですけど、私は飲んでいるから悪い信者です。でも豚は宗教ではなくただ嫌いです。
長嶋 神戸で美味しいレストランありますか?
ラジ 色んな国の食べ物があるけれど、やっぱり私は日本酒がいちばんいいですね。
河内 今回は、このフォーラムのイントロですが、また秋ころにも続きをやりたいですね。来年、阪神淡路大震災10周年に繋げたいのですよ。異人館の神戸から世界へ発信したい。
佐藤 もう、この際言わせてもらいますが、観光客は異人館に来た後、なんでこんな所に神社あんねん?と言われるんですよ――
河内 それは、失礼やね!
佐藤 こっちは800年も前に建ってるんですよ。
河内 神戸は、昔から国際都市で、平の清盛が開いた街なんです。しかし清盛はまだ早すぎたんですよ。700年後の明治になってから、世界に開かれました。これから、震災10年の来年に向けて続けたいものです。
那 月 俊 (なつき しゅん) 2003年5月OSK日本歌劇団解散時の最後のトップスター。2003年8月にはリーガロイヤルホテルでのディナーショー で大成功を収めた。12月、北野ネザーランズセンターでのライブ公演で歌劇の枠から飛び出した男役として新境地を開く。
2004年 1月 30日(金) 19:00~21:30
会場 神戸ネザーランズセンター
主催 神戸・北野2004実行委員会 ネザーランズセンター
後援 兵庫県 神戸市 (財)兵庫県芸術文化協会 (財)神戸国際協力文化センター
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阿倍野ヒューマンセミナー:音楽と漫才でお贈りするシルクロード
ペルシャヴァイオリンとお話
上野眞樹とダリア・アナビアンの漫才
阿倍野市民学習センター・あべのヒューマンセミナー
2004 月10 月15日
趣旨:世界各地の音楽や踊りを鑑賞したりを聞くことで文化や民族について考えます。あわせて平和、人権、人間の連帯を感じ、心繋ぐ音楽の旅ができればと思います。
ダリア:今日はえらい集まりでんなぁ。音楽だけ聴いて世界を平和にしようという凄い企画でんねん。音楽と万歳で届けるシルクロード。
上野:ヴァイオリン弾きに万歳なんかできるわけおまへんがな。二人でお手上げ。これが本当の万歳。
ダリア:今日はヴァイオリン界のヨン様、上野さんに来ていただきました・・・と誰がこんな台本書いてん。どうして上野さんがペルシャの音楽をやるんですか?
上野:そもそもヴァイオリンのルーツはペルシャでんねん。クラシック音楽は中東の音楽にもごっつい影響してまんねん。その源はやっぱりペルシャなんやろね。
ダリア:今日、私はい・ら・んことを言いながらスライド操作いたします。
過去から現代までもり沢山。ペルシャは、当時の世界の中心やったからね。
上野:言い方は失礼ですが、今でいうニューヨーク。
ダリア:何でも発祥はペルシャなんですから。最初の曲は?
上野:リムスキー・コルサコフのシェラーザード。
ダリア:あのアラビアンナイトに出てくるシェーラーザードですね。あのアラビアンナイトやて源はペルシャ。その証拠にシェラーザードってペルシャ語やねんから。
上野:へぇ、どないな意味でんねん?
ダリア:町子ちゃんいう意味や。
上野:なんや小野小町かいな。
ダリア:ここで一曲どうぞ。
PART 2
上野:そういえばしばらく顔みいひんかったね。どこに雲隠れしてたん?
ダリア:2ヶ月間テルアビブに行ってて、先週帰ってきました。
上野:テルアビブ言うたら、イスラエルの?大変なところに行ってたんやね。このスライドの写真は何でっか?イスラエルの現代彫刻?
ダリア:いやいや、これは今年の一月にできたイスラエル人とアラブ人を隔てる壁。
上野:このバリアフリーの時代にわざわざ壁を作ってまんの?
ダリア:イスラエル人がパレスチナ人を囲い込む目的で作ったん履けど、よう考えたらイスラエルが壁の中に閉じこもってしもうてるやん。
上野:けったいな話やねぇ。そんな中で生活するの大変やね。パレスチナ人も壁みながらご飯食べてもおいしないね。
ダリア:イスラエル人も大変やねんでぇ。結婚式、学校、スーパー、病院、クラブ、カフェ、どこ行っても爆弾持ってないかボディーチェックされてカバン掻き回されんねんでぇ。
上野:今までイスラエル人が一方的にパレスチナ人を家畜のように抑えつけてると思てたけど、自分らも家畜のような生活やなぁ。
ダリア:壁を避難すんのは簡単やけど、あれだけ自爆テロが生活の中で頻繁に起こったら、イスラエル人も恐怖に駆られてどんな作戦たてるかわからん。
上野:最近またバス2台爆破テロがあったみたいやね。
ダリア:バ スはしょっちゅうや。バスの入り口でカバンをチェックしてられへんからね。2台バスが爆破されたとのは叔母が住んでいるベルシェバという町で、そのとき私 はタクシーに乗ってて、ラジオからニュースが流れてきてん。バス一台爆破された・・・二台目が爆破された・・・三代目が爆破された・・・っていう風に放送 が流れた。でも三代目は間違いやってん。みんなパニックしてラジオ局にどんどん電話して色んなことを言うから放送曲も混乱状態。テレビを付けたら色んな政 治家がスタジオで議論している。「壁を作ったんが悪かった」とか「いや壁でテロリストを防止せなあかん」とか。でもみんな同時にしゃべっているから何も聞 き取れへん・・・
上野:大阪と同じやね。
ダリア:昔、シルクロードで中東は文化の交流する場やった。人と物が交わって飛躍的に発展していった。異常は状況。
上野:ドイツでは10年前に壁が壊されたのにイスラエルでは作っている。人間の作るもんには隙があるもんやね。壁を乗り越えたり、隙間から子供が出入りしてますね。
ダリア:こんな不細工な壁には漫画でも書いて笑い飛ばすしかないなぁ。
上野:お互い相手の曲は聴かへんの?お互い仲がわるかったらイスラエルはアラブ音楽聞かへんの?
ダリア:い や、それが最近イスラエルのテレビで、若いイスラエル人とアラブ人が共同のポップス音楽番組を作ってんねん。政府に向かってイスラエルもパレスチナも両方 とも間違っているというメッセージを送ってんねん。そんな好きなこと言えるようになってイスラエルもちょっとは空気変わってきたかな。異文化が存在する、 そんな豊かさこそが、人類の故郷。
上野:次の曲はニーグン。ユダヤ教の合唱長が歌う即興的な歌です。
PART 3
上野:弓で弾く楽器は愛の楽器やねん。
ダリア ・・・
上野:弓って昔は武器やったろ?それを弾いたり擦ったりして人を喜ばせる活気にしたんやから。ヴァイオリンはもともと弾いてたし。
ダリア:ルーツはペルシャのケマンチェやねん。
上野:そのケマンチェも弾けるんやで。それに日本胡弓な。おまけに日本ヴァイオリンっちゅうのも作ってな。
ダリア:日本ヴァイオリン?聞いたことないわ。
上野:そりゃあそうや。世界に一つしかない。白木のヴァイオリンに漆を縫ってもらって絹糸を貼ったんや。ゆかしい音するでぇ。
ダリア:ついでにCDの宣伝もしときや。
上野:ほな、お言葉に甘えて今言った4つの楽器を弾いて平和を祈るCD「天風」を作ったんや。これをこうてくれたら日本ヴァイオリンの音も聴けるで。
ダリア:中を開けたらチューリップのネクタイしめてヴァイオリン弾いてる写真もあるし。
上野:ひょっとしてチューリップもペルシャ原産と言いたかったんちゃうか?
ダリア:当たりや。