「バム大地震チャリティーコンサート」 ~イランの夜明け~
朝日新聞の文化事業
2004年3月5日
会場:大阪市 朝日新聞ビル
主催 朝日カルチャーセンター
考 えられないような、2003年の締めくくり。冬とは思えない穏やかな日。鳥の声。鳥が木をつつく音。鳥が南へ飛ぶ羽音。この静けさの中にいると、イラン・ バムの大地震など想像もできない。阪神大震災が10年目を迎えようとしていたときに、私のもうひとつの故郷で地震が起こった。 2003年12月26日の 夜明け、イランの古代シルクロードの街バムで起きた地震は、阪神大震災の約10倍の犠牲者を出した。浜辺で子供たちが造った御伽話のような砂の砦は海の波 に攫われたように、 あっという間に跡形もなくなった。神戸の街角では、次の日からもう募金活動が始まっていた。すぐに協力者が現れ、私も日本各地でバム 支援の講演会活動を行い、話を聞いてくださった方々と、それまで存在すら知らなかったバムの痛みを分かち合えるようになった。言葉でも、音でも表せない、 イランの地獄の深さ。バム支援講演で、状況をスライドで上映した。
2003年12月26日の夜明け、マグニチュード6.3の地震で
古代シルクロードの街、バムの80パーセントが破壊された。
あの日、バムの人々は、世の終わりを味わった。
バムは、立ち直ることができるのか。
バムの2000年間つづいてきた風景
バムは、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げて作られた
世界一大きい城塞都市だった。
最初に建てられたのはゾロアスター寺院で巡礼地。
ササン朝ペルシャ(飛鳥時代)に入ると巡礼が続けられた。
シルクロードの真っ只中
胡椒の取引所としてスパイスロードの中心地になった。
7世紀に入るとゾロアスター教の寺院は
イスラム寺院に代わり
18世紀にはアフガニスタンと争そって砦として使われた。
150年前まで、遺跡の中に人々が住んでいた。
色んな歴史を経て、
1953年、バーレビの時代に、たくさんの歴史学者と
優秀な建築家がもてる知識を出し合って
協力して建て直した。
修復を重ねがら世界一泥の砦になった。
そこに何があったか、わからないくらい、
バムは、跡形もなくなった。
人々が住んできた泥の家は、日干し煉瓦の中には粘土、
麦わら、椰子の木の幹を混ぜて泥を型に流し込んで
太陽に干して固められてた。
住民たちの手で積み上げたレンガの家々は
夏には涼しく、冬は暖かい。
本来なら、釜でじっくり焼いて、強くしなければならない
とドイツの地震学者が警告していた。
イラン国内の報道によると犠牲者は、5万人以上に上った。
地震とともに、椰子の木からたくさんの棗(なつめ)が
地面に落ち、人々はそれらをひらって、飢えを凌のいだ。
棗は、砂漠の民にとってはエネルギー源。
イランでは、それを紅茶と一緒に食べる伝統がある。
バムでは農業が盛んで、
毎年、何千トンもの棗を海外に輸出し、
何千年来、バムの人々を支えてきた。
その椰子の木だけが、崩れる街を見つめていた。
悲しさのあまりに自分の頭を叩く
日干し煉瓦がばらばら
家から出てきたのは造花のばらだけ
600人の親族を一度に失った人の悲しみは
どれほどだろう。
そのときバムは昼も夜も
瓦礫の中から犠牲者が引き出され、大きな葬式もなく
ブルドーザーで間に合わせのお墓を掘って埋葬し
簡単な祈りで済ました。
イスラムの教えに従って、
生き残った婦人たちは黒いベールにまかれ、
死者は白い布に巻かれた。
地震二日後、2003年12月27日
イランの政府は、国民に非難された。
イランは、石油という資源があるのに、何故そのお金が
国民の生活に使われていないのか。
これまで鎖国状態にあったイランに
何十カ国からも救援部隊がぞくぞくと国の中に入り込んだ。
イランの空港にアメリカから、飛行機が2機着陸した。
イランイスラム革命が起こった1979年以後、
両国は国交を断絶したが、今回、
イランはアメリカを受け入れざるを得なかった。
地震三日後、2003年12月28日
イランでいちばん偉い人がきた。
イスラム政権の宗教指導者、ハーメネイ。
イランでは、大統領ではなく、
宗教指導者が権力を握っている。
神戸大震災のことを思い出す。
村山首相も3日後ぐらいに来たが、被災者からは、
「村山はいらない、水がほしい」という声で満ちていた。
こういう時になると、政治家よりもバケツの方が大切だ。
地震から一週間、2004年の元旦。
ニューヨークのタイムズスクエアーで
色とりどりのネオンが点いた。
恋人たちのニューイヤーズ・キッスが飛び交った。
バムの砂漠では親子が慰めと愛情で抱きしめ合った。
色のないイランでも
その上には青い空が広がっている。
九日間も埋まっていた97のお婆ちゃんが犬に助けられた。
「何が起こったの?地震?」と周りの人に尋ねた。
「寒いから、お茶をください」と言った。
彼女は、お茶を飲むとペルシャの詩を歌い始めた。
ベッドが棺になり、彼女は生きたまま閉じ込められた。
たった一人で朝を迎え、夜を過ごし、
唯一のパートナーは神だった。
一世紀を目前にして、まだ諦めようとしない。
彼女は、このメッセージを世界に発信するために、
97年生きてきた。
イランの人口は、7千万人でその半分が14歳以下。
イランイラク戦争で奪われた
教育を取り戻さなければならない。
革命に遭い、戦争で戦い、貧乏にしのぎ
世界に見捨てられたイラン。
この地震が、闇を抜ける
イランの夜明けなのか。
瓦礫に残されたドア。希望への入り口を連想させる。
イランはたくさんの地獄をくぐった。
中東がテロや戦争でふけてゆくなか
バムは世界中に助け合う、分かち合う大切さを
思い出させ、そのために犠牲になった5万人以上
の命を無駄にしてはならない。
ユネスコの文化部から、
イランの政府に調査の依頼があり、
バムは2004年に世界遺産として登録された。
子供の砂浜のお城のように崩れてしまったバム。
嘗てのシルクロードの街が復活するのは
まだまだ時間がかかる。
今度は、世界の愛と鉄骨入りのお城と家々を建て
てゆく計画だ。
朝日新聞の文化事業
2004年3月5日
会場:大阪市 朝日新聞ビル
主催 朝日カルチャーセンター
考 えられないような、2003年の締めくくり。冬とは思えない穏やかな日。鳥の声。鳥が木をつつく音。鳥が南へ飛ぶ羽音。この静けさの中にいると、イラン・ バムの大地震など想像もできない。阪神大震災が10年目を迎えようとしていたときに、私のもうひとつの故郷で地震が起こった。 2003年12月26日の 夜明け、イランの古代シルクロードの街バムで起きた地震は、阪神大震災の約10倍の犠牲者を出した。浜辺で子供たちが造った御伽話のような砂の砦は海の波 に攫われたように、 あっという間に跡形もなくなった。神戸の街角では、次の日からもう募金活動が始まっていた。すぐに協力者が現れ、私も日本各地でバム 支援の講演会活動を行い、話を聞いてくださった方々と、それまで存在すら知らなかったバムの痛みを分かち合えるようになった。言葉でも、音でも表せない、 イランの地獄の深さ。バム支援講演で、状況をスライドで上映した。
2003年12月26日の夜明け、マグニチュード6.3の地震で
古代シルクロードの街、バムの80パーセントが破壊された。
あの日、バムの人々は、世の終わりを味わった。
バムは、立ち直ることができるのか。
バムの2000年間つづいてきた風景
バムは、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げて作られた
世界一大きい城塞都市だった。
最初に建てられたのはゾロアスター寺院で巡礼地。
ササン朝ペルシャ(飛鳥時代)に入ると巡礼が続けられた。
シルクロードの真っ只中
胡椒の取引所としてスパイスロードの中心地になった。
7世紀に入るとゾロアスター教の寺院は
イスラム寺院に代わり
18世紀にはアフガニスタンと争そって砦として使われた。
150年前まで、遺跡の中に人々が住んでいた。
色んな歴史を経て、
1953年、バーレビの時代に、たくさんの歴史学者と
優秀な建築家がもてる知識を出し合って
協力して建て直した。
修復を重ねがら世界一泥の砦になった。
そこに何があったか、わからないくらい、
バムは、跡形もなくなった。
人々が住んできた泥の家は、日干し煉瓦の中には粘土、
麦わら、椰子の木の幹を混ぜて泥を型に流し込んで
太陽に干して固められてた。
住民たちの手で積み上げたレンガの家々は
夏には涼しく、冬は暖かい。
本来なら、釜でじっくり焼いて、強くしなければならない
とドイツの地震学者が警告していた。
イラン国内の報道によると犠牲者は、5万人以上に上った。
地震とともに、椰子の木からたくさんの棗(なつめ)が
地面に落ち、人々はそれらをひらって、飢えを凌のいだ。
棗は、砂漠の民にとってはエネルギー源。
イランでは、それを紅茶と一緒に食べる伝統がある。
バムでは農業が盛んで、
毎年、何千トンもの棗を海外に輸出し、
何千年来、バムの人々を支えてきた。
その椰子の木だけが、崩れる街を見つめていた。
悲しさのあまりに自分の頭を叩く
日干し煉瓦がばらばら
家から出てきたのは造花のばらだけ
600人の親族を一度に失った人の悲しみは
どれほどだろう。
そのときバムは昼も夜も
瓦礫の中から犠牲者が引き出され、大きな葬式もなく
ブルドーザーで間に合わせのお墓を掘って埋葬し
簡単な祈りで済ました。
イスラムの教えに従って、
生き残った婦人たちは黒いベールにまかれ、
死者は白い布に巻かれた。
地震二日後、2003年12月27日
イランの政府は、国民に非難された。
イランは、石油という資源があるのに、何故そのお金が
国民の生活に使われていないのか。
これまで鎖国状態にあったイランに
何十カ国からも救援部隊がぞくぞくと国の中に入り込んだ。
イランの空港にアメリカから、飛行機が2機着陸した。
イランイスラム革命が起こった1979年以後、
両国は国交を断絶したが、今回、
イランはアメリカを受け入れざるを得なかった。
地震三日後、2003年12月28日
イランでいちばん偉い人がきた。
イスラム政権の宗教指導者、ハーメネイ。
イランでは、大統領ではなく、
宗教指導者が権力を握っている。
神戸大震災のことを思い出す。
村山首相も3日後ぐらいに来たが、被災者からは、
「村山はいらない、水がほしい」という声で満ちていた。
こういう時になると、政治家よりもバケツの方が大切だ。
地震から一週間、2004年の元旦。
ニューヨークのタイムズスクエアーで
色とりどりのネオンが点いた。
恋人たちのニューイヤーズ・キッスが飛び交った。
バムの砂漠では親子が慰めと愛情で抱きしめ合った。
色のないイランでも
その上には青い空が広がっている。
九日間も埋まっていた97のお婆ちゃんが犬に助けられた。
「何が起こったの?地震?」と周りの人に尋ねた。
「寒いから、お茶をください」と言った。
彼女は、お茶を飲むとペルシャの詩を歌い始めた。
ベッドが棺になり、彼女は生きたまま閉じ込められた。
たった一人で朝を迎え、夜を過ごし、
唯一のパートナーは神だった。
一世紀を目前にして、まだ諦めようとしない。
彼女は、このメッセージを世界に発信するために、
97年生きてきた。
イランの人口は、7千万人でその半分が14歳以下。
イランイラク戦争で奪われた
教育を取り戻さなければならない。
革命に遭い、戦争で戦い、貧乏にしのぎ
世界に見捨てられたイラン。
この地震が、闇を抜ける
イランの夜明けなのか。
瓦礫に残されたドア。希望への入り口を連想させる。
イランはたくさんの地獄をくぐった。
中東がテロや戦争でふけてゆくなか
バムは世界中に助け合う、分かち合う大切さを
思い出させ、そのために犠牲になった5万人以上
の命を無駄にしてはならない。
ユネスコの文化部から、
イランの政府に調査の依頼があり、
バムは2004年に世界遺産として登録された。
子供の砂浜のお城のように崩れてしまったバム。
嘗てのシルクロードの街が復活するのは
まだまだ時間がかかる。
今度は、世界の愛と鉄骨入りのお城と家々を建て
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