2005年4月13日水曜日

ペルシャの痕跡を求めて 古代オアシス都市へ


古代オアシス都市・ウズベキスタン

2005年4月7日
タシュケント空港を出て・・・

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タシュケント空港の外で朝日に照らされた木々。
幹の根元に蟻よけのために石灰が塗ってある。
前でポーズをとっているのは、プーリー・アナビアン

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まずホテルへ直行
バスの真ん中に立っているのはガイドのバフティアールルさん。
あだ名は、パフちゃん。 ウズベキスタンでは、東西民族の
十字路のため、ウズベク語、タジク語、ロシア語、英語が日常
に使われる。パフちゃんは、日本語もぺらぺら。

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ル・メリディアン・ホテルで王侯貴族のような朝ごはん。

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食べ切れないほどのパンに(●^o^●)

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高杯の中に数え切れない種類の手作りジャム。

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旅行の仲間、左から
薬師寺の管主夫人安田順恵さん、
アフガニスタン美術史専攻の大学の名誉教授前田さんご夫妻。
アフガニスタン研究家、前田さんご夫妻
東京の葛飾高砂七郵便局長、清田伶子さん。

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ル・メリディアン・ホテル ホテルのロビー

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朝の光のなかで

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ウズベク人のインテリアーのセンスで装われたロビー

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ル・メリディアンの東洋的な美人

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窓の外のビルは第二次大戦の日本人の捕虜によって建てられた劇場。1945年にソ連が国際条約を破り、日本人捕虜をウズベキスタンに連れてきて、彼らの労力を利用して建てた。1966年、タシュケントを襲った地震で劇場だけがびくともせず残った。

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タシュケントは中央アジアに位置するウズベキスタンの首都。
2500年前のアケメネス朝ペルシャ大帝国の衛星国家だったが
1917年のロシア革命で、ソビエト連邦の共和国になり、
1991年に中央アジアは分割され、ウズベキスタンが独立した。
タシュケントは、ペルシャ語で「蜜のような友情の街」という意味。古代より東西交易路シルクロードの大民族が団結して、巨大な遊牧国家が造られたなかで、オアシス国家として大きく花咲いた歴史を称え、蜜のような友情の街とペルシャの詩人が名付けたのである。

           ★…☆     ☆*    
  ★☆    ★*…  

PART Ⅱ

甘美な夜の物語・サマルカンド

2005年4月8日

サマルカンドは、ペルシャの詩にたびたび
詠われる地名、「甘美な夜の物語」という意味。
200年前までペルシャの一部だったが、現在は、
ウズベキスタンにある。

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青空の下のチャイハネ (ペルシャ語で茶屋)

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アウトドアーの調理場

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チャイハネは、地元の人が”緑茶と番茶の間の子”を飲みながら食事をするところ。

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羊の水餃子やピラフには、生の香草、ねぎとフェンネルの茎がよく合う。

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羊骨ラーメン「ラグマン」

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「ラグマン」を持ってきてくれたお姉さんたち
お姉さんの一文字眉毛は、中央アジアの伝統な化粧法。

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釜から取り出した焼きたてのパンに判子を押す

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パンの判子を押して


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高熱の釜の壁に貼り付けていく

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菊の御紋章入り、宮内庁御用建つのパン

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お客さんに「貴方に豊かなお恵みがありますように」と祈り言葉を込めて大きなパンを振舞う習慣がある。

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顔より大きなパン
同行の薬師寺管主婦人安田順恵さん

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サマルカンドのミュジアム

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紀元前のオーブンの炊き口。古代ペルシャ人、トルコ人、モンゴル人、みなこのオーブンを使った。現代も紀元前と変わらぬ方法でパンが焼かれている。

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大きな素焼きの壷を土のなかに埋めて食料の保存
紀元前の冷蔵庫。


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夏用の戸外の台所
民家の別嬪のお嫁さん。


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民家の料理は、チャイハネよりも、味が優しい

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民家の愛猫も別嬪さん

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紀元前の女性のお化粧道具。焦がしたアーモンドの粉を器の中で練って、上の刷毛で目に付けていた。装飾だけでなく目薬として目を保護していた。
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細い眉毛や太い眉毛、移り変わってゆく近代の流行に左右されず、何百年間もペルシャの細密画にある一文字眉毛が守られてきた。一文字眉毛は、ペルシャの詩にも詠われてきた。

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町のバザーにも眉毛が一本に繋がっている女性がたくさんいました。
左側: でもこの女性は本当は書いているのです。 右側:プーリー アナビアン

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サマルカンドのパン屋。

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木の実は、干し葡萄と合わせて、口のなかにひょいと入る 。おかき感覚でいつでも、どこでもばりばりっと摘むのも美味しい。

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干し葡萄とピスタチオは、ピラフのトッピングに、干し杏(あんず)は煮込み料理に使う。

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ちびっ子商人

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シルクロードの交易拠点として栄えた中央アジアのサマルカンド。
古 代から東の中国と西のローマを結びつけた1万3千キロに及ぶユーラシア大陸の幹線道路で幾多の人と物が行き来した。その交易の大部分を支配したのはペルシ ア系の民族,ソグド人だった。彼らは大国の狭間で生き、社会情報、政治情報をしっかり掴んでいた。交易のネットワーク、シルクロードでもっとも成功した商 人。ウズベキスタンの人々の暮らしの中に嘗てのシルクロードの伝統が残っている。

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勇猛果敢なソグド人の肖像。
具紀元前1000年に中央アジアで、部族社会による衛星国家が作られる過程にあり、サマルカンドのソグディーアーナは、古代ペルシャ王国の一員として容認された。重要な構成員として卓越した軍事力でオアシスを支配し、豊かな定住文化を育んできた。
サ マルカンドのソグディーアーナ防壁は、ペルシャ帝国まで広がっていき、多民族国家、アケメネス朝ペルシャ帝国の根拠地となった。紀元前600年のソグド人 が定住していた領土には、灌漑が行き渡り、小麦や果実が豊かに実った。サマルカンドは防壁の中でお互いの交流により工業と手細工が発展し、近代国家へと脱 皮していった。ユーラシアで活躍したソグド人はシルクロード交易を支配したと言われている。繁栄を極めながら、今から1000年前に姿を消した。

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小さな羊飼いたち。

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草原を歩く羊たちのお尻の油がプリンプリン。
地平線の彼方に羊が一列ならんで草を食む姿は
8千年前からずっと繋いできた風景。
先祖のありがたさが身に沁みる。

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ビビ婦人のモスクの由緒
チ ムール帝が出かけていた間に、中国人の奥さんが建てたビビハニム(ビビ夫人)モスク。テムールが帰ってきたらびっくりさせようと思って、建築家をせかせ た。建築家は、ビビにキッスをさしてくれないとモスクを完成させないよと脅した。ビビは、しょうがいわね、じゃー、いいわよと言った。チムール帝が帰える なり、ビビのキスマークを見て怒り、建築家を死刑にした。今後、男性が誘惑されないように、女性がベールを着けるように命令した。皮肉なことに建築技術の 限界まで駆使されたビビ・ハニム・モスクはチムール帝国の宝石となった。イスラム世界でいちばん巨大なモスクは、年月と共に少しづつ崩れていき、ついには 1897年の地震で全壊した。モスクは再建されたが、昔の美しさを取り戻すことができなかった。

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8 世紀、中央アジアでは偉大な科学者・医学者・数学・文学者・天文学・百科事典編集者を輩出し、あらゆる分野の学術の基礎を築いた。廃れていたギリシャの学 問を盛り返し、サマルカンドは学術の興隆を極めた。チベットで使っている天文学、中国で栄えた科学、ヨーロッパで形作られた近代医学、すべてはサマルカン ドから西と東へと伝わったもの。

Austronomy

ウルグベク天文台博物館

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時の王のウルグベックは、チムールの孫であるが、天文学者としても有名。
この天文台での観測をもとに、彼は、一年間を365日6時間10分8秒と推測した。今日の精密機器で計ると365日6時間9分9.6秒。誤差は1分にも満ちない。

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9-10世紀に中央アジアから文学・天文学・数学・地理学の基礎が開かれ、彼らの知恵が数世紀後、ヨーロッパまで波及した。

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代数学と天文学の大家
アル・ホラズミ

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世界で最初に地球儀を作った人
アブラハ ビルニ

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詩人
オマール ハイヤーム

ペ ルシャの詩人として世界に知られているオマール ハイヤーム(バルフ今のアフガニスタン)は、イスラムのイスファハンで禁酒下のなか、葡萄酒を賛美する詩 を書いたためサマルカンドへ逃げてきた。彼の詩は、イランやアフガニスタンや中央アジアの人々が日常会話に一節を引用するほど、心をとらえています。ウズ ベキスタンでは、ウズベク人といい、アフガニスタンでは、アフガン人といい、イランではイラン人として、自慢しあうほど。元は全部同じ国だったから。

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詩人
ルーダーキ
8世紀、イスラム教が浸透して間もないころ、ルーダーキーの詩が反政府と見なされ、目を抉られた。残念ながら、彼のような偉大な詩人たちが、拷問に遭うのは今もイランでは1000年前と同じ状況にある。

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詩人
フェルドルスィー

フェ ルドゥスィーは、国民的詩人。西暦935年生まれ。そのころのペルシャ語にアラビア語が混じり(今の日本語に和製英語が混ざってきているように)フェル ドゥスィーは、イスラム化以前のペルシアに立ち戻り、35年もかけて「王書」長編叙事詩を純粋なペルシャ語で書いた。ペルシア語の韻を踏んだイランの古事 記は、ヤマトタケル伝説のように、神の巻から始まり王の歴史が描かれている。
 ペルシャ建国の神話・伝説・歴史物語が描かれた2500年以前の壁画は、サマルカンドの街で発見されている。
中央アジアやイランの精神的な筋金になっているフェルドゥスィーが残した言葉
「自由であるべき者達は、怠惰によってのみ奴隷になる」

PART Ⅱ

ブハラの春
2005年4月11日

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ウズベキスタンとペルシャは、何千年も一つの歴史と文化を共有してきた。ブハラは、ペルシャ語で気高い中心地という意味で、まさにシルクロードの交易と政治の中心として栄えた街だった。

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18世紀の初頭、ビクトリア朝のイギリスと皇帝ロシアが、シルクロードの隊商都市に土足で踏み込み、賭け事で中央アジアの取り合いをした。陰謀に陰謀を重ね、ついに皇帝ロシアの手中に落ちた。
それまでペルシャ語で書かれていた歴史の本がすべて焼かれ、シルクロードの研究はロシア人が独占し、ロシア語で歴史は書き直され、学校教育もロシア語に代わった。中央アジアの多民族は、自分たちのルーツを消されてしまった。

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皇 帝ロシアが滅びると、中央アジアはソビエト連邦に組み込まれた。1992年、ソビエトの崩壊で中央アジアはロシアの経済的なお荷物になり、なお、文化、言 語、人種がロシアとは違うという主張で切り捨てられた。中央アジアは分割され、ウズベキスタンは独立国家になったが雇用が激減している。ウズベキスタンは 今、石油が大量に出るが、国民の5分の1しか裕福な生活ができない。中央アジアを一つの共和国にしたらもっと公平になれるが、それぞれの大統領たちは権力 を離せない。千の都市が栄えたシルクロードは今、貧困、民族紛争、テロの養成地として飛躍している。

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文明の歴史は異文化が共存できるか何千年も問
いかけてきた。お互いの大きな違いを超えて共存で
きるのか。
ここは、ブハラのユダヤ人街。大きなユダヤ人
コミュニティーは、2000年間も続き、20世紀の初頭
には20万人が住み着いていた。 しかし、21世紀は、
イスラムテロ地下組織が”異教徒”を追い出しにか
かり、多宗教共存国家として栄えてきたブハラは、
今、イスラム一色に塗り替えられようとしている。

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中央アジアのナイスガイたち

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ウズベク帽を被った坊や

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新婚の女性が三ヶ月だけ被る帽子。

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ブハラで、魔よけのお香を炊いて道行く人からお金を貰うアフガン難民。

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パリに生まれていたらVOGUEの表紙のモデルになっていたかもしれない。
嘗てのシルクロードは、今のニューヨークのように、文化と経済が活気的
に発展し、このへんはアパレル産業の中心になった。女性が顔に着け黒子したり、洋服に襟を付けたり、バンダナを頭に巻いたり流行の原点だった。バンダナは、ペルシャ語であり、アフガン難民の女性もその名残で装っている。

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ペルシャ古典楽器サントゥール演奏のために
民族衣装を見つけた。

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スザニーというウズベクの伝統的な綿地絹刺繍。

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私たちのガイド、バフチュールがバスのなかで自慢話「ぼくには3人もガールフレンドがいるんだよ」 後に座っているプーリー・アナビアン:「まぁー 情けないわね。ブハラの王様はお妃が300人もいたのに」ガイド:ぎゃふん。

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女性たちが踊る民族舞踊を見ながらの夕食。

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ブハラにはそんなに、男を欲情させる美人がたくさんいたのでしょうか?

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他民族の美女団。

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いろいろな顔でしょう?

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女性たちが着ているのは、イカットという絹の蝋結染め。礼服やドレス、カーテンや風呂敷に使われていた芸術品。1900年に途絶えたイカットを復活させたニュー・ファッション。

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バイオリンの弾き方を見てください。シルクロード・スタイルで膝に立てて弾いている。

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ちょっと前の女性は外に出かけるとき、ブルカ(女性の覆い)を被っていた。布の細かい穴からかすかに外が見える。今は、蚊避けにいいかも。

Bukharaburqa

両側に垂れている細長い布が結ばれていたら既婚者の印
「手を出すな」というサイン。

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ブハラのモスク
右、モスク。左、祈りを捧げる塔、ミナレット。
この美しいモスクのミナレットから不貞を犯した妻を投げ落とした。
ある日ここから落とされた犯罪人がブルカをパラシュートに使ったために命が助かり、この死刑のやり方をやめにした。

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こちらは、ブハラ王国の最後の死刑広場
真中のいちばん奥の玉座に座って死刑執行を見届けた。

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広場から家臣が出るときは、王様に背中を見せることは失礼だったので、後ろ向きに退室して、階段で転げてしまった人がいたために、入り口に壁を立てたわけ。

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ブハラの最後の王様が住んでいた宮殿。
王様は、伝統的なイカットで正装。
ソビエトが1920年代に侵攻してきた。

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宮 殿で使われていた巨大なサモワール。昔の湯沸かし器は、壺の台座に炭を入れ、火を点け、真中にある蛇口からお湯をティーポットに注ぎながら、一日中お茶を 飲んでいた。イラン、アフガニスタン、中央アジア、ロシアで今でも使われている。ロシア語で「サモワールの横に座ろう」は「井戸端会議をしよう」という意 味。

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ブハラの小さな王国のハーレムで、いちばん若い後宮の姫は、12歳だった。

かの有名な千夜一夜物語の舞台がブハラであった。

PART Ⅲ

 テルメズで蘇った仏像

紀元前500年、ダリウス大王がTransoxiana(現代のウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン)をペルシャ帝国に併合したとき、ユー ラシア大陸が世界の中心として栄えた。シルクロードの道によって中国とヨーロッパが繋がった。シルクロードの商人は、隊商を組んで、ラクダに物資を乗せて 二つの大陸を往来した。この道の旅人たちは、絹や香辛料だけでなく、紙や火薬の製造、機織の技術と新しい思想や宗教を運び、交易した。

Roadtotermez

玄奘三蔵と同じ道を辿る。シルクロードをバスでたどりアフガニスタンの国境の町へ向かって走る。仏像が蘇った町、ウズベキスタンの最南端、テルメズ。

Goatmilk

雪に覆われた山々は、天山山脈。絞りたての山羊のミルクが地道の端で売られている。

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アレキサンドロス大王も通った道

Road

世 界をギリシャ文化の一色に染めたかったアレキサンドロスは、遠征に出かけ、ペルシャ文明の高さに目が覚めた。敵の凄さを知り、征服が共存に変わった。ギリ シャとペルシャの共存を目指した。アレキサンドロスは、ペルシャの民族衣装を着けて中央アジアの王族のお姫様と結婚した。彼は、家来に「ペルシャに魅せら れた軟弱物」と罵られた。世界をギリシャ化する征服がギリシャとペルシャの共存に変わり、ニ文化を融合させる新しい秩序を打ち立てた。専制君主の国家を民 主国家であるペルシャ帝国で、アレキサンドロス大王は自らペルシャの王に代わった。けっきょく、アレキサンドロスは、武力では勝ったが文化には負けた。

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異 文化が共存できるのか文明の歴史は何千年も問いかけてきた。ギリシャの古代宗教、ゾロアスター教、ユダヤ教、ネストリアンのクリスチャン、マニ教、ヒン ズー教、仏教、イスラム教は、それぞれがユーラシア大陸で根付き、戦争と帝国、文化と芸術、宗教と交易の中心だった。20世紀の初頭(1920年)には、 ロシア(ソビエト連邦)のスターリンが、このユーラシア大陸を細切れにして、国境線を作った。

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バスの窓からは見た石油のパイプ。ウズベキスタンは、石油の噴出しても、雇用が激減している。

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嘗 てユーラシアの様々な文化が融合した道。多民族が往来することによって、交易で栄えたシルクロード。ウズベキスタンは、ユーラシアの様々な文化が融合して いるため、他文化の尊重が身についている。広大な領土を持たず、大国の狭間で交易によってシルクロードは栄えた。しかし成し遂げた文化の融合の歴史が今、 色あせている。絹の道が、検問所の道に代わっている。ここに残っているのは、検問所、崩れかけた家々、そして、いざとなったら戦闘機の滑走路に使われる幅 広い道。アフガニスタンの国境、テルメズに入るまでに5回ほど検問所を潜らなければならなかった。でも検問所で検査官は大喜び。カメラを持ち出し、チョコ レートのサービスまでしてくれた・・・めったに来ない訪問者に大はしゃぎ

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大学生は卒業後、職に就くために400ドル払って兵役で資格を取り、国中にちらばっている検問上で働くことができる。左胸のバッチは、今のイランでは使われないパーレビー国王の御紋と同じものがこんな辺鄙なところに残っているとは。

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テルメズにて、1600年前、クシャン朝で布教した仏教の遺跡、カラテパ。発掘現場は、アフガニスタンの国境に接した軍隊の基地のなかにある。基地に入るためには、検問のゲートを潜らなければならない。

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遺跡は、アムダリア川を国境として向こう側は、アフガニスタンが目前。昔は、モンゴル帝国とペルシャ帝国の国境だった。アフガニスタンとの境界線にカメラを向けたり地図を広げたりしたらSNB(元KGB)に目を付けられると警告された。

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イ ンドで生まれた仏教は、様々な文明と出会い、500年の歳月を経て世界宗教へと飛躍してゆく。仏教の変革に関わったのは、中央アジアからガンダーラまで広 大な帝国を気づいたクシャン人だった。クシャン人が古くから信仰していたのはイランの伝統的な宗教、ゾロアスター教だった。

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仏教の遺跡を発見した加藤久祚(きゅうぞう)先生。
テルメズ市民のアイドル、加藤先生は80歳半ばなのに遺跡発掘現場では少年のように輝く瞳をきらきらさせて説明されます。

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ク シャン人と大乗仏教教団が出会うと、仏教の教えが、人生の苦悩をどう解決するのか、死後の世界はどうなるのか、クシャン人の心がひきつけられた。シルク ロードの交易を握っていた裕福な彼らは、死後の不安から開放されるために、仏教のパトロンになった。仏教教団もクシャン人にマッチするように教義を変え、 ガンダーラ仏の前でゾロアスター教(拝火教)の火を炊いて、仏典を読んだ。

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仏 教はさらに東へ伝わり、紀元前6世紀、海を渡って日本にもたらされた。今でも残る奈良の東大寺で、春の訪れの伝統行事、お水取りは、人々の煩悩を祓う聖な る炎の祭である。ゾロアスター教の影響を色濃く伝えたものだと言われている。今のイランでも、春になると各家庭で炎を飛び越え一年の穢れを落とす行事を続 けている。

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仏教遺跡の発掘に際しては薬師寺が10年間以上、資金援助をしてきた。発掘現場の状況視察が目的で訪問した管主婦人、安田順恵さんと、私達母娘で同行した。

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アムダリア川の向こう岸アフガニスタンでは、発見された仏教遺跡の多くが内戦の混乱のなかで消え去ってまった。もし、平和が訪れたら、どれほどの仏教遺跡が土壌から掘り出されるだろう?

Wildpoppy
命を懸けて仏教をもたらした玄奘三蔵の歩いた道にたくさんの野生チュウリップが咲いている。

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加藤久祚先生が発掘されている仏教遺跡を初めて見学して驚いた。歴史の新しい1ページがこうして書かれていくのだと。

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私たちが訪れた春に、小さな可愛い仏像が出てきた。

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