2015年9月12日土曜日

2015年 千手観音の手で紹介するペルシャ



ダリアのペルシャ料理とプーリー・アナビアンの音楽CDがさくらFM(西宮市)で紹介された。


「さ くら」の季節を迎えて「さくら」FMで、母プーリー・アナビアンが編曲したペルシャっぽくアレンジした日本の「さくら」の曲を流して、MCカナさんと尽きな いお話をしました。日本とペルシャの縁ってどれほど深いか、尽きない話をしました。 



レクチャー・コンサートパーティーを初めてうちで開催しました。25人も入れると思わへんかった。全員がペルシャ料理初体験の日でした。


March 1 2015 神戸、異人館通りの我が家で初めてイベントを開催。ペルシャ食文化のスライドショーを見ていただき、試食、演奏、デザート、トルココーヒーで半日を満喫。



ホームパーティーのきっかけを作ってくださったのは近藤朱凰先生(右上)のお蔭様です。一度に20人以上のご友人ができました。


 関西に戻ると融通念佛宗総本山大念佛寺で僧侶たちと開祖700年の祝賀法会に招かれて、ペルシャ音楽とお話をしました。

 

  本堂内で記念写真


僧侶の念仏詠唱に合わせてサントゥールの音色が本堂に響きました。初日の演奏会



2日間続きました。


喜作で斬新な楽しい僧侶さんたちでした。



次は、京都光華女子大学で文化教室(下の写真)で「ベールに包まれたペルシャの結婚式」というテーマで講演をした。ちょっと前まで、イランでは当日まで新郎新婦が当日まで顔を見ることがなかった。花婿が花嫁のベールを初めて巻き上げたとき、顔みて気絶することがあった。


大阪市中央区大手前の「ギャラクシー水文化の会」で「砂漠から生まれた文明」の講演


有名な日本の評論家、文化プロデューサーでいらっしゃる河内厚郎先生とは20年以上親しくしていただいて、ぶっつけ本番の講演会をよく企画してくださっています。第1弾は、ダリアのトーク、第2弾は河内先生との対談。その内容は・・・


第1弾:古代文明のほとんどが大きな川沿いから生まれましたね。例えば、コウガとヨウスコウ、チイグリスとユウフラテス川、ナイル川、インダス川。しかし、ペルシャは砂漠の地下水を掘り出した文明なのです。オアシスは、自然が生み出したかと思っていたが、古代の人々が砂漠から作り出した楽園だったのです。


水と緑の人口オアシスには、現代でも通用するような技 術の集積があります。


すでに5000年前から砂漠を数百メートルも掘る大工事を行い、砂漠に無数の地下水路を張り巡らしたのです。なんと、そんな革新的な 技術のなかに迷信まで作り上げたのです。地下水路(カナート)に畏敬の念を抱いていた村人たちは、女性をカナートと結婚させる変わった風習があっ たのです。披露宴が開かれ、楽団とともに村人たちは踊りながら馬に乗った花嫁をカナートの水の出口まで連れていきます。結婚式が終わると、村人たちは去っ ていきます。女性は服を脱ぎ棄て、水に飛び込んでカナートの中に入りそこに座ります。これで初夜が終わります。3人のお嫁さんを貰った幸運なカナートもいました。


花嫁は、カナートの傍に住み続け、必要な物は村人たちの小麦などの寄付で生活をするようになります。年になんどか花嫁は裸になって泳ぎま す。それは夫となったカナートを優しく宥めるためです。この儀式のお蔭で夫になったカナートはいつも村に豊富な水を運んでくれるようになります。


第2弾:私は、イランとイスラエルの水と油の結晶です。今日は、両国の水文化を中心にお話して、河内先生と対談しました。


 カナートのお蔭で国が潤い、イラン人にとって人生がパーティーになりました。


イスラエルも水技術の先進国。建国以来荒野に植林し緑の国へと発展してきました。


ペルシャとイスラエルが共通しているのは「砂漠を花を咲かせた国」という点。25000年間とても仲よかったけれど、今は政治的に敵対しているのは、たったの36年。


司会の今井範雄さん(前に立っている右の方)がご挨拶されてから、本をプロモートしてくださいました。本日は、「浪花のペルシャ文化伝道士」の肩書きで関西弁を駆使して、平和ボケしている日本では考えられないお話や砂漠の地下水路のお話などが聞くことができました。そしてお祖母ちゃん譲りのペルシャ料理にも造詣が深く、『千夜一夜のおもてなし、ダリアのペルシャ料理』を出版されました。私も読ませていただきましたが、料理の本かと思いきや、ペルシャの文化と歴史が詰まっています。


Q: 87年から90年までテヘランに住んで思ったことは、イラン人というのは非常に賢い民族だということです。買い物に行くと、アメリカやヨーロッパなら足し算でお釣りをくれますけど、イランの人は引き算がぱっと出来て、日本人か中国人かの見分けもして値段も変わってくる。もう1つ、イラクと戦争をしていたときということもあったと思いますが、女性がいろんなところに社会進出して、女性の運転手が非常に多かった。


A: パーレビ時代には女性が大活躍していました。祖母の行った学校も、女性に数学を教えれば化学も歴史も…山登りとかも教えながら裁縫や料理も教えるというバランスの取れた教育だったので、感覚がモダンなんです。だからそういう女性がイランにいっぱいいるんですね。


ペルシャの王国の時代、私が子供のころ(つまり70年代のこと)テヘランで祖父と親交があった日本の考古者や作家がペルシャの歴史を書いてベストセラーになりましたが、その方たちは次々と亡くなってしまいました。イランイスラム革命後は、発掘調査に力を入れなくなり、ペルシャ研究者の数も少なくなり、まるで歴史が止まったようです。だからこそ古代ペルシャを伝えるのが私のミッションに思います。


そういう方たちとの交流が私と関西の縁を結んだのです。『ペルシャ錦』の本のイントロも書いてくださった三笠宮殿下はまだ健在ですね。日本の元気な昭和時代とイランの国王時代にペルシャ古美術のブームが起こり、有名な作家、井上靖氏、考古学者江上波夫氏をはじめとする日本の文化人の多くは、イラン訪問に際して、ほとんどが祖父ラヒム・アナビアンに会い、多くの知識を得ました。


料理が大好きなので歴史をお腹で伝えるのもいいかなと思いました。歴史と料理のエッセイを書いたレシピ集のパート1は出版しましが、この後パート2・3と続けて出します。

 
買っていただいた方には、金のペンでサインをしますが、古本屋に持っていけなくなりますよ。


ジュンク堂、紀伊国屋書店、アマゾンなど大手の書店では2160円で売っていますが、講演会で私から直接購入すれば、消費税はおまけします。ぴったり2000円で結構です。おつりがじゃまくさいから。

講演会が終わると二次会


二次会は、大坂人らしく他人の話には耳を傾けず、ひたすら自己主張。1500年ほど前の大阪湾は、上町台地(天王寺から大阪城にかけて)は半島でシルクロードの入り口なので、私は大阪の下町にとてもとても親近感を感じます。飛鳥時代にペルシャの御物が船で上町台地に到着し、ここから奈良の都に運ばれていきました。


2016日10月31日ハロウイーンの日は、京都大原勝林院本堂でサントゥール演奏


京都大原三千院に初めて訪れ、観光客に荒らされていない芸術的なお寺には感激しました。


芸術の粋を集めた建築物と庭園、これがほんまの日本の美と今更ながら思います。


演奏前にペルシャ人も顔負けのおもてなしで迎えられました。


そのなかでも、ここの和菓子が特に美味しかったわー。感嘆の連続やった!


待合室が秋晴れの自然のなかのお寺。これほどの贅沢はないわ。


勝林院のお寺から朱傘さして、お練り返しして、帰っていくのは仏様に節付のお経を奉納する儀式。



法要の還りの行列



行列組むお練りが終わるとサントゥール演奏が始まる。 


四季の彩と千年の響き ~秋~ にて音楽奉納させていただきました。


異国のサントゥールの響きが、お寺のなかで違和感なかったのは、遠い昔にどこかで繋がっていたからでしょう。それを参列していた人みなが感想で話していました。


見るからにそうでしょう?










2015年の正倉院展では、読売新聞コーナーで「千夜一夜のおもてなし ダリアのペルシャ料理」を展示販売させていただきました。ちょこちょこ売れました。


大坂狭山市公民館で 母娘でペルシャのスイーツ教室とサントゥール演奏を行いました。


大坂狭山市といえば、堺市。貿易を中心に自由都市を作り、刀や包丁の技術が日本一と言われている都市。堺市とペルシャは、縁がかなり深いんです。ペルシャのスキタイ人は、紀元前から鉄の技術を持った人たちで自由都市を作ってました。スキタイをペルシャ語で”サカ”と発音していました。そのサカ族の鉄の技術が堺に流れ込んだ説があり、サカイと呼ばれたのは、偶然かな?



ペルシャ料理を紹介するために、私の使っている包丁も世界に誇る堺の包丁やサカイに、これからも応援してや。


まだまだペルシャ料理は、日本の家庭料理として取り入れるのは、まだまだ馴染みがないのですが、パイヨニアとしてみなさんと楽しみながら、広めていきたいです。


薔薇水を使ったデザート、アーモンドブラマンジェをみんなで作りました。


デザートを作って食べ終わると、デザートの後のデザートがありました。


そのデザートは、プーリー・アナビアンのサントゥール演奏でした。

12月7日2015年
芦屋市民センターにて100人以上も来ていただきました。
講演会 「ペルシャ料理と神戸北野料理訪問」


実は、ペルシャ料理は、西洋料理の母なのです。


(河内厚郎先生と対談は、料理から政治へと飛び回りました)

紀元前3世紀にアレキサンダーがマセドニアからアケメネス朝ペルシャ大帝国を侵略したときに、みたことがない食材を見て、カルチャーショックを受けたんですね。ペルシャ人は贅沢をしすぎと非難しましながらも、自分はペルシャ人のお嫁さんをもらい、ギリシャ料理は、ペルシャ食文化の影響を受けたのです。1世紀にギリシャの移住者が西暦ローマに移り住み、ローマ料理、即ち、イタリア料理にペルシャの食材のみならず料理法も持ち込んだのです。


レモン、オレンジ、薔薇の花びら、シナモン、クローブ、バジル、パセリ、タラゴン、オレガノ、マージョラム、月桂樹(ローレル)、いんげん豆、白いんげん、ひよこ豆、お多福豆などのペルシャの香りが持ち込まれ、美食の帝国となりました。

ローマ帝国は、北アフリカから小アジアまで拡大しましたね。地中海貿易の中心地になってからは小アジアからの食材も豊富になりました。

料 理の基礎は玉ねぎを黄金色に炒めることから始まり、シナモン、ナツメグ、クローブ、こしょうなどの2~3種類のスパイスを自己主張ではなく隠し味程度に使 いました。 食前に果物を出し、オリーブ油に浸けるにんにくのピックルズ、食後などは山羊や羊の白いチーズ、素焼きの壺のなかの熟成チーズ。これらがワイ ンの肴にしてどれほど美味しかったでしょう。

こうやって、ペルシャ料理は、西へと流れ始めました。


3世紀に ローマ帝国が西と東に分かれると東ローマがコンスタンティノープル、つまり。

11世紀~14世紀のサルジュークトルコ時代にペルシャ文化を自国の文化として取り入れられます。羊肉からでる油と汁で焼き、素材のもつ旨味と香りを余計な香辛料を使わずに引き出す料理法、少しの香草を使う材料のバランスがとれた料理。お肉を一口大に切り、玉ねぎで匂いを消し、ひよこ豆などと一緒に煮込む料理、土窯で焼く平たいパン、ミントと塩で味付けられたヨーグルトドリンク、ほうれん草のヨーグルト和え、お米で作るサフランプリンなどトルコとペルシャ料理は、従妹のようなものです。神戸でお勧めのトルコ料理は、三宮の東門街南入り口にあるMURATというレストランです。神戸市中央区中山手通1丁目4−5 サブウェイサイドビル 8F


ペルシャ料理は、東にも流れます。インド料理(ネパール、バングラデッシュ、パキスタンを含む)は16世紀のムガール帝国の宮廷でマハラジャ料理を作っていたコックさんがペルシャ人でした。玉ねぎを薄くスライスし、しっかり炒めてからターメリックで調味するペルシャの煮込み料理がインドカレーの基本になったのです。子供のころ、日本にきて初めてカレーライスを食べたとき、口から火がふきそうなほど刺激的に思いました。私の母は辛いのが食べられないんです。インドとペルシャ料理法は基礎が同じなのですが、香辛料(マサラ)が主役であるインド料理は厚化粧、素材の味を生かす酸味の効いたペルシャ料理は薄化粧です。ここもご紹介したい北野のインド料理屋です。

ガネーシャガル北野インド料理店 神戸市中央区北野町3丁目2−4


ペルシャ、インド、パキスタン料理に最適なのはバスマティ米です。素麺を切ったように見えますが、仕上がりは香りがよく歯ごたえがあります。イラン、インド、パキスタンの産地のお米は、炊いたときに腰があり、おすすめです。日本では外米は全て同じように思われていますが、どんな種類を選ぶかによってお米料理がずいぶん変わってきます。
同じインディカ米でもタイ米(ジャスミン米)は炊くと腰がぬけるのでお勧めしません!

神戸ハラールフード  
食料品店
住所: 〒650-0004 兵庫県神戸市 中央区中山手通2丁目17-3 西島ビル
電話:078-241-1286

北野グロサリーズ
神戸市 中央区山本通3-3-3 フラワービル1F.
電話: 078 230 6860



お米もサフランで染めて、バラ水を振りかけます。相性がよいのです。千夜一夜でもこの場面が出てきます。薔薇水は、アイスクリームに混ぜると変身します。以前、ハーゲンダッツが季節限定でバラのフレーバーを出していたけど、ちょっと石鹸の味がして、これならペルシャかトルコの薔薇水をバニラアイスクリームに混ぜた方が、よっぽど美味しいですよ。ペルシャの詩人 オマール・ハイヤームが薔薇の詩を謳いました。「顔を見せてください 花園が見たいから 口づけをください 甘い蜜がほしいから」 我を忘れるエギゾチックなアイスクリームなら北野でお勧めの店があります。



神戸市中央区山本通2丁目14-30 (エリア: 新神戸・北野・異人館 ) インドやペルシャの伝統的なピスタチオアイスクリームを連想させた、ピスタチオのソフトクリームが神戸北野街にふさわしく異国情緒溢れる~。

以上、芦屋市民センターで、「ペルシャ料理と神戸北野料理訪問」を紹介しました。引き続き次回は2016年にまたね!